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電話の向こう側で、黒衣に身を包んだ男は、隙のない気品を纏っていた。

その顔立ちはまるで彫刻のように整い、深い瞳に、わずかな驚きが浮かんだ。

沈黙が続き、松浦苑実はためらいがちに口を開いた。『突然すみません。今の話は、なかったことに……』

『有効だ』 彼女の言葉を遮るような、低く静かな声が響いた。

その一言に、苑実は息をのんだ。

口にしてすぐ、少し後悔していた。

秋葉健人との婚約を解消するのは、もはや当然のこと。

だが、藤原晴樹と結婚するのは、明らかに危険だった。

暗闇の中、苑実の意識は一年前へと沈んでいった。

――あの日も、こんな静かな深夜だった。いつものように病院を出た彼女は、城西の路地裏で、血まみれで倒れている晴樹を見つけたのだ。

助けた時、苑実は彼が何者なのか知らなかった。だから、彼が礼をしたいと言った時、冗談半分で尋ねたのだ。『本当に、何でも?』と。

男が静かに頷くのを見て、つい口が滑った。『じゃあ……私をお嫁にもらってくれる?』

それは、本当にただの、口から滑り出ただけの言葉だった。まさか、晴樹が再び頷くとは思わなかった――。

当時、苑実には亡き母が決めた健人という婚約者がいた。彼女は慌てて、今の言葉は冗談だと打ち消した。

晴樹は彼女に婚約者がいると知ると、それ以上は何も言わず、ただ一言だけ告げた。『その男と結婚したくなくなったら、俺のところへ来い。約束は二年だ』

そう、約束の期限は、まだ切れていない。

電話がどのように切れたのか、苑実の記憶は曖昧だった。

耳の奥に、男のあの言葉だけが残った。『一ヶ月後だ。準備しろ』

誰と結婚するのか?

もちろん、健人ではない。

苑実は暗闇の中、ベッドに深く身を沈めた。鉛のように重い疲労感が全身を包んでいるというのに、意識ばかりが冴えてなかなか寝付けない。 ようやく微睡みかけたその時、枕元の携帯電話が鋭い通知音を立てた。

祖母が入院しているため、苑実は携帯の電源を切ることも、マナーモードにすることもできない。

不意に光った画面が、床に散らばる布の残骸を照らし出した。

長い間見つめた末、やっとそれが今日の健人のスーツ、彼女が心を込めて仕立てた、たった一着だと見分けた。

写真には、松浦綾乃からのメッセージが添えられていた。「ごめんなさい、お姉様。このスーツがお姉様の手作りだなんて知らなくて。ただの服だと思って、汚れていたから切り刻んでしまったの。怒ってないわよね?」

探るような口調の奥に、露骨な優越感がにじんでいた。

苑実が返信しないのを見て、綾乃は追い打ちをかけるようにメッセージを送ってきた。「健人さんも私のこと、少しも責めなかったわ。『たかが服一枚じゃないか、大したことない』って」

このままでは今夜は眠らせてもらえないだろう、と苑実は悟った。指先で、冷たい画面をタップする。 「健人の言う通り。たかが服よ。怒ってない。あなたが満足なら、それでいいわ」

画面を消すと同時に、苑実は綾乃の番号を着信拒否に設定した。

怒りは、もう残っていなかった。嘘ではない。

何しろ、このような嫌がらせは、この二年で数えきれないほど繰り返されてきたのだから。

いちいち腹を立てていたら、今頃とっくに壊れている。

再び目を閉じた苑実だったが、眠りの気配はすっかり遠のいていた。

今の自分を見たら、天にいる母は後悔しているだろうか。

そもそも、綾乃は松浦家の隠し子で、苑実より数ヶ月しか年下ではなかった。

苑実の母、安藤泉は綾乃の存在を知ると、すぐさまその子を国外へ追いやった。 しかし、長年の心労が泉の体を静かに蝕んでいた。

泉が重病で倒れたのを好機と見た父・松浦隆は、杉田圭子と綾乃の母娘を松浦家へと呼び戻したのだ。

継母ができれば、その後の暮らしが楽ではないことを、泉自身が誰よりも知っていた。隆が頼れる男でないことは、誰よりも分かっていた。

だからこそ母は、自分が亡くなる前に、苑実と健人の婚約を急いだ。

泉と健人の母、村上美緒が長年の親友だったからだ。

苑実と健人も幼馴染同然で、その関係性を考えれば、秋葉家に嫁げば娘はきっと幸せになれると、母は信じて疑わなかった。

だが、泉はそこまで考えても、人が変わるということまでは、予想できなかったのだ。

泉は息を引き取る間際、健人の手を握り、苑実を大切にしてくれるかと何度も問いかけた。母と、そして健人の母である美緒の前で、彼は力強く、何度も頷いた。

その誓いは、当時の苑実でさえ、永遠のものだと信じてしまうほど固く、確かだった……。

翌朝、腕を掴む乱暴な力に、苑実は眠りから引きずり出された。

目を開けると、怒りに顔を歪ませた健人が見下ろしていた。

手首に走る痛みに、苑実は荒々しくその手を振り払う。「朝から何のつもり?」

「苑実、母さんに告げ口することしか能がないのか、お前は!」

その言葉に、苑実は静かに眉をひそめた。

あれだけ騒ぎになっているのだ。美緒が知らないはずがない。

母から電話を受けた瞬間、健人は苑実が告げ口したのだと決めつけた。

もはや弁解する気力もなかった。

婚約を解消する決意が、さらに固まった。

苑実が黙っているのを、認めたとでも思ったのだろう。屋敷へ向かう道中、健人は冷たい言葉を吐き続けた。

だが玄関をくぐった瞬間、健人は口を閉ざし、穏やかな顔を作った。

その豹変ぶりを目の当たりにして、隣に立つ苑実は内心で深くため息をついた。なぜ、こんな男の裏の顔に今まで気づけなかったのか。自分の見る目のなさに、呆れ返った。

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読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全314章

  1. 第1章チャプター 1 タトゥー
  2. 第2章チャプター 2 契約
  3. 第3章チャプター 3 好き

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