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橋本グループの最上階。

戻ってきた陽翔に、匠は視線を向けた。「サインしたか?」

「奥様はサインされました。ですが、何もお受け取りになりませんでした」

陽翔は契約書を、匠の前に差し出した。

(何も受け取らなかった、だと?)

匠の整った顔に、かすかな驚きが走る。あの女に、そこまでの意地があるとは。 離婚には手間がかかると思っていた。なのに、この結果を聞いて、胸にちくりと刺さるものがあった。

三年間、家にいて専業主婦だった女だ。仕事も、人付き合いもない。身一つで出て行って、これからどうやって食っていく?

気遣っている自分に気づき、匠は眉を寄せて、その考えを打ち消した。

離婚したのだ。あの女がどう生きようと、もう関係ない。

離婚協議書を引き出しに放り込み、匠は顔を上げた。「雪影は見つかったか?」

「相手は神出鬼没で、行方が掴めません。現れた場所に、痕跡ひとつ残していないのです」

「ダークウェブに懸賞を出せ。名医・雪影の情報を寄越した者には、二十億円だ」

三年前、五条ねねは手のつけられない毒に侵された。全国の名医を頼っても、手の施しようがなかった。この数年、海外で療養を続けているが、その体は衰えるばかりだ。 雪影は名医の弟子で、"若き名医"と呼ばれるほどだという。その腕前は神業の域で、死んだ者を甦らせ、白骨に肉を戻すとまで噂される。

彼女を見つけられれば、ねねの毒を解く道も開ける。

「すぐに動きます」

一方その頃、陽向は愛子を、一軒の邸宅の前に連れてきていた。

「ここを使え。これから、どうするつもりだ?」

「まだ何も」

陽向はスマホを愛子の前に置いた。「お前の行方を、二十億円で探してる奴がいる。どうする?」 愛子は興味なさげに言った。「興味ない」

「まあいい。しばらくゆっくり休め。ただ、前に受けた依頼が汐見市の岩田家でな。催促が来てるんだ。気が向いたら、行ってやれ」

「土曜日」

「わかった。そう伝えておく」

愛子は荷物を片付け、日用品を買い出し、SIMカードを新しくした。過去と、きっぱり手を切るように。

土曜日が、あっという間にやってきた。

陽向に付き添われて、愛子は岩田家へ向かった。ご老夫人の治療のためだ。

帰り際、ブラック・ベントレーとすれ違った。

愛子が窓の外に目をやると、彫りの深い男の横顔が目に入った。 匠が、なぜここに?

三十分前、匠は名医・雪影が岩田家のご老夫人を診るとの報を受け、陽翔を連れて駆けつけてきたところだ。

姿を現さない相手なら、自ら出向いて捕まえるまで。 岩田家に着いたとき、名医はすでに去っていた。匠の表情が、すっと凍る。

さっきすれ違った車を思い出す。匠は運転席に飛び乗り、アクセルを踏み込んだ。 陽向はバックミラーに映る黒い車に気づいた。「追ってきてるぞ。まさか、元夫じゃないだろうな?」

愛子が一瞥する。あの冷たい前夫の車に、間違いなかった。

瞳に光が宿った。「振り切って」

陽向がアクセルを踏み込む。車は放たれた矢のように、道を駆け抜けた。

匠も譲らなかった。獲物を狙う豹のように、執拗に迫る。

二台の車が、抜きつ抜かれつの死闘を繰り広げる。

何度か交わしても、陽向は匠を振り切れない。焦りがにじみ出る。

「くそっ。お前の元夫、まさか運転が上手いとはな。この分じゃ、追いつくまで引き下がらねえぞ!」

愛子の瞳が、見開かれた。「私がやる」

座席を入れ替え、愛子はアクセルを底まで踏み込んだ。目指すは、汐見市で名高い鬼灯峠の303号カーブ。

ブラック・ベントレーが、じりじりと間合いを詰めてくる。

山の麓で、愛子は車を止めた。

相手が近づいた瞬間、アクセルを全開にする。 カーブに差しかかる。ブレーキ、クラッチ、シフトダウン、横に滑らせて、アクセル。一連の動作が、流れるように決まる。 二度、三度の攻防の末、匠の車は遠く後方へと消えた。 窓が下がり、白く細い指が一本、車外に突き出される。中指が、後方の車に向かって立ち上がった。

傲慢で、挑発的だ。

匠は目を細めた。あの白い手には、見覚えがある。間違いなく女の手だ。

コースを抜けて終点に辿り着いたとき、女の車はもう影も形もなかった。

陽翔は手すりにしがみつき、心臓をバクバクさせていた。社長が、女ひとりにやり込められる。初めて見る光景だ。

怒り狂うと思っていた。なのに、振り返った陽翔の目に映ったのは、口元に浮かぶ不気味な笑みだった。 「面白い」

(何が面白いというのか。)

さっき、あやうく命を落とすところだったのに。

「手段は問わない。

ありとあらゆる手で、あの女を引きずり出せ」

他でもない、彼女ならねねの病気を治せるかもしれないのだから。

続きを読みますか?

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全252章

  1. 第1章第1章 離婚
  2. 第2章第2章 面白い
  3. 第3章第3章 彼よりも決然と

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