メインコンテンツへスキップ

終業時刻のチャイムが、無機質にオフィスに響き渡った。 凛はパソコンの電源を落とし、誰に挨拶することもなく席を立った。 エレベーターに乗り込み、地下駐車場の薄暗い空間に降り立つ。 母親の病院へ向かうため、自分のコンパクトカーが停めてある区画へ歩き出した。 その時、視界の隅に、見慣れた黒いセダンが映った。 佐藤暁の愛車だ。 彼の車の前で、足が自然と止まる。 暁が、助手席のドアを開けていた。 そして、杉野雅が乗り込む際に、彼女が頭をぶつけないように、そっと自分の手でルーフを庇っている。 その仕草は、かつて凛だけが向けられていた、彼の優しさの証だった。 雅が微笑みながら車内に収まると、暁は満足そうにドアを閉め、軽快な足取りで運転席へと回り込む。 凛は、駐車場の太い柱の影に身を潜め、その光景をただ冷ややかに見つめていた。 あの助手席は、自分の場所だったはずだ。 しかし、今、彼女の心に燃え上がったのは、嫉妬の炎ではなかった。 すべてを諦めた人間だけが持つ、氷のような無関心。 彼女は、駆け寄って彼を詰問したいという衝動を、微塵も感じなかった。 自分の車に乗り込み、エンジンをかける。 黒いセダンが滑るように駐車場を出ていくのを横目に、凛もまた、アクセルを踏み込んだ。 過去との決別は、もう始まっている。 翌朝。 カーテンの隙間から差し込む朝日が、がらんとしたダイニングテーブルを照らしていた。 凛は、昨夜のうちに印刷しておいた退職届を、丁寧に三つ折りにした。 そして、真っ白な専用の封筒に入れ、封をした部分に、自分の印鑑を静かに押し当てた。 封筒の表面に書かれた「辞表」という二文字を見つめる。 七年間、ずっと胸の上に乗っていた巨大な石が、ようやく取り除かれたような、不思議な解放感があった。 彼女は車を走らせ、会社へと向かった。 朝のラッシュアワーを避け、まだ人の少ないオフィスビルに入る。 向かったのは、社長秘書室だった。 秘書の加藤誠は、まだ出社していない。 凛は、彼の綺麗に整頓されたデスクの上に、その白い封筒を置いた。 『社長へお渡しください』と書いた簡潔なメモを添えて。 その後、自分のデスクに戻ると、小さな段ボール箱を取り出した。 机の上に飾っていた写真立てや、愛用していたマグカップを、一つ一つ、無言で箱に詰めていく。 「凛? 何してるの?」 コーヒーを片手に、清水結衣が訝しげな顔で近づいてきた。 段ボール箱を見て、彼女は驚きに目を丸くしている。 凛は顔も上げず、淡々と答えた。 「少し疲れたから、長期休暇を取ることにしたの」 「長期休暇って……」 結衣の目が、何かを探るようにきらりと光った。 彼女は内心で、凛が暁の気を引くために芝居を打っているのだと決めつけている。 その軽蔑が、凛には痛いほど伝わってきた。 凛は彼女を無視し、さほど重くもない段ボール箱を抱え上げた。 そして、一度も振り返ることなく、ヴィンキュラム・テクノロジーのガラス張りのエントランスを通り抜けた。 東京の喧騒が、彼女を迎える。 ビル風が、頬を撫でた。 彼女は、久しぶりに吸う自由な空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。 その時だった。 一台の黒塗りのマイバッハが、音もなく滑るように、彼女の目の前に停車した。 後部座席の窓が、静かに下がる。 中には、完璧に仕立てられたスーツを着こなした、鷹司グループの御曹司、鷹司慧が座っていた。 彼の深い瞳が、まっすぐに凛を見つめている。 慧はドアを開けて車から降りると、その身分も顧みず、凛が抱えていた少しみすぼらしい段ボール箱を、自らの手で受け取った。 そして、それをトランクに丁寧に収めた。 「小林凛さん、ですね」 慧は、一枚の金箔押しの名刺を凛に差し出した。 そこには、『アークライト・イノベーションズ 代表取締役 鷹司慧』と記されている。 アークライト・イノベーションズ。 ヴィンキュラム社にとって、最大の潜在的脅威と目されている、新進気鋭のテクノロジー企業だ。 「我々の会社に来ていただきたい。CEOとして」 慧は、単刀直入に言った。 凛は名刺を見つめたまま、動けなかった。 心臓が、激しく脈打っている。 「ずっと、あなたを見ていました」 慧は、彼女の目を見て、静かに続けた。 「ヴィンキュラム社のコア特許……あの『自動金利カーブモデル』を本当に作り上げたのは、あなたでしょう」 その一言は、凛が七年間、暁のために意図的に隠し続けてきた、彼女の真の価値を、正確に撃ち抜いていた。 凛は、はっと顔を上げた。 目の前の男を、初めて本当の意味で見た。 しかし、彼女は喜びで我を忘れたりはしない。 冷静に、そして少しの警戒心をもって、彼に告げた。 「申し訳ありませんが、私は今、厄介な個人的な問題を抱えています 重要な決断を下せる状況ではありません」 慧は、彼女の返答を予測していたかのように、穏やかに微笑んだ。 「ええ、承知しています。ですから、契約を急ぐつもりはありません。まずは、我々のオフィスを見てみませんか」 彼は一歩下がり、マイバッハの後部座席のドアを、極めて紳士的な仕草で開けた。 そして、彼女を招き入れるように、軽く手を差し伸べる。 凛は、背後にそびえ立つヴィンキュラム・テクノロジーのビルを、一度だけ振り返った。 彼女の目に、決然とした光が宿る。 もう、迷いはなかった。 凛は、ためらうことなく、その豪奢な車のシートに身を沈めた。 ドアが静かに閉まり、マイバッハは滑るように発進する。 過去を象徴する街並みが、みるみるうちに遠ざかっていった。

続きを読みますか?

読み進めると物語が続きます。

続きを読む

章一覧

全200章

  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

新着