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第2章 名琴の争奪と画廊での強烈な反撃

翌朝、東京・港区にある高層マンションの一室。

カーテンの隙間から差し込む朝日のなか、高橋美月が湯気の立つマグカップをガラステーブルの上に置いた。

「信じられない……あの男、そこまで腐ってたわけ?!」

美月はソファに座る華奈の顔色を窺いながら、怒りを爆発させた。

「五年間、あんたがどれだけ尽くしてきたか! 料理ひとつ作れないくせに偉そうにしてる愛人に、お母様の形見を渡すなんて……万死に値するわよ!」

華奈は温かいカップを両手で包み込み、静かに息を吹きかけた。

「いいのよ、美月。あの家にあるものには、もう未練はないわ」

「未練がないのはいいけど、奪われたものは取り返さなきゃ気が済まないでしょ!」

美月がスマートフォンの画面を操作していた指をぴたりと止めた。画面を見つめるその目が、怒りに見開かれる。

「……華奈、これ見て」

差し出された画面には、セレブ界隈の非公開グループチャットのスクリーンショットが映し出されていた。

「速報:立花桜花様が本日、銀座の画廊『アリア』で非公開の幻の名器を試奏中! 鈴木グループの若き総帥が全額出資で買い取る予定とのこと」

添付された写真には、ガラスケースから取り出され、深い琥珀色の輝きを放つヴァイオリンが写っていた。

華奈の指先が、カップに触れたまま凍りつく。

「夏夜の星」――。

かつて母・長友晴美が生前に愛用し、華奈が成人するまで画廊の特別保管庫に寄託していた、世界に数本しか存在しない幻の名器。

「あいつ……ネックレスだけじゃ飽き足らず、お母様のヴァイオリンまで仁夫にねだったのね」

美月が立ち上がり、ぎゅっと拳を握りしめた。

華奈は静かにカップを置いた。その瞳から一切の温度が消え去り、研ぎ澄まされた刃のような鋭い光が宿る。

「美月、車を呼んで」

「行くのね?」

「私のものを、泥棒の手に渡すわけにはいかないわ」

二十分後、銀座の一等地に佇む最高級画廊「アリア」の前に、一台のタクシーが滑り込んだ。

黒のタイトなパンツスーツに身を包み、トレンチコートを羽織った華奈が降り立つ。その研ぎ澄まされた佇まいは、昨夜まで家庭に縛られていた主婦とは完全に別人の空気を纏っていた。

自動ドアをくぐると、奥のVIPサロンから耳障りなほど拙く、ぎこちないヴァイオリンの音色が漏れ聞こえてきた。

音程の定まらない高音が空間を切り裂く。

華奈は眉ひとつ動かすことなく、ガラス張りのサロンへと歩を進めた。

サロンの中央では、純白のレースワンピースを着た立花桜花が、ソファの背に体を預けるようにしてヴァイオリンを構えていた。その青白い首元には、昨夜奪われたアクアマリンのネックレスがこれ見よがしに揺れている。

「まあ、桜花さん! なんて素晴らしい音色なの! まさに天使の調べだわ!」

周囲を取り囲む取り巻きの令嬢たちが、大げさに手を叩いて称賛していた。

画廊の支配人である太田が、揉み手をしながら桜花に頭を下げている。

「立花様の手にかかれば、この名器も本望でございます。鈴木社長からも、金額に糸目はつけないとのお言付けをいただいておりますので」

「ふふ、仁夫さんは過保護なんだから……。私の体調を心配して、どうしてもこの音色で療養しろって……」

桜花が儚げに咳き込みながら、満足そうに微笑んだ。

そのとき、ヒールの硬質な足音が絨毯の敷き詰められたサロンに響き渡った。

「その薄汚れた手で、母の楽器に触るな」

冷然たる声が、甘ったるい空気を一瞬で切り裂いた。

全員の視線が一斉に入口へと向けられる。

華奈がゆっくりと歩み寄ってくる。その凛とした美貌と圧倒的な気迫に、取り巻きの女たちが思わず後退りした。

「華奈……さん?」

桜花の手が止まり、瞳の奥に動揺が走った。だが、すぐにいつものか弱い表情を作り、眉を八の字に寄せる。

「どうしてここに……? まさか、私と仁夫さんのことを怒っているの……?」

支配人の太田が不快感を露わにして、華奈の前に立ち塞がった。

「失礼ですが、当サロンは完全会員制のVIP専用スペースです。部外者の方はご退館願えますか」

華奈は太田を一瞥もせず、視線を桜花の胸元、そしてその腕の中にある「夏夜の星」へと据えた。

「人の夫を盗み、形見の首飾りを盗み、今度は楽器まで盗むつもり?」

「な、なんですって?!」

取り巻きのひとりが甲高い声を上げた。

「鈴木夫人の座にしがみついているだけの教養のない女が、何を偉そうに! 桜花さんは世界的な演奏家なのよ! あなたみたいな素人が口を挟む場所じゃないわ!」

「そうよ、仁夫さんが桜花さんのために買ってくださるのよ! 僻むのもいい加減になさい!」

美月が横から割って入ろうとしたが、華奈が片手を上げて制した。

華奈はトレンチコートの内ポケットから、赤い封蝋が押された証書を取り出した。

「太田支配人」

華奈は冷ややかな声で告げた。

「この楽器の『寄託管理契約書』の原本よ。よく目を開けて確認しなさい」

華奈はその書面を太田の胸元へと突きつけた。

太田は眉をひそめながらそれを受け取り、記載された文字に目を落とした――その瞬間、顔面から血の気が引いた。

『特定寄託物件:名器「夏夜の星」』

『唯一の正統継承人および所有権者:浜田華奈(長友晴美の実子)』

『特記事項:所有者本人の書面による承諾なき売買・譲渡・試奏は一切禁止とする』

「こ、これは……」

太田の額から脂汗が噴き出した。

「どうしたの、支配人?! そんな紙切れ、早く破り捨てて追い出しなさいよ!」

令嬢が叫ぶが、太田の手は小刻みに震え、言葉が出てこない。

桜花の顔色が、首元の宝石よりも青ざめていく。

華奈は、桜花へと静かに一歩間合いを詰めた。放たれる絶対的な威圧感に、桜花はソファに縫い付けられたように動けない。

華奈はすっと右手を伸ばし、桜花が抱えるヴァイオリンのネックを正確に掴んだ。

「私の楽器から手を離しなさい」

低く、有無を言わせぬ響き。

桜花は唇を噛み締め、涙を浮かべながら抵抗しようとしたが、華奈の冷徹な眼差しに射竦められ、屈辱のなかで指の力を抜くしかなかった。

華奈は鮮やかな動作で「夏夜の星」を取り戻すと、太田を冷たく見据えた。

「無断でケースから出し、他人に試奏させた件については、後ほど私の顧問弁護士から連絡させます。――直ちに専用ケースを用意しなさい」

サロン内は、水を打ったような静寂に包まれていた。

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読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全67章

  1. 第1章第1章 五周年の冷雨と奪われた形見
  2. 第2章第2章 名琴の争奪と画廊での強烈な反撃
  3. 第3章第3章 妥協なき所有者と冷え切った食卓

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