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第3章 妥協なき所有者と冷え切った食卓

「は、はい! ただいま!」

支配人の太田は、先ほどまでの傲慢な態度をかなぐり捨て、転がるようにバックヤードへと走っていった。

サロンに残された取り巻きの令嬢たちは、あまりの空気の急変に言葉を失い、互いに顔を見合わせるしかなかった。

「な、何よ……形見だか何だか知らないけれど」

ひとりの令嬢が、震える声で負け惜しみを口にする。

「ヴァイオリンなんて弾けもしない人間が持っていたって、ただの木屑じゃない。桜花さんに弾いてもらった方が、楽器だって喜ぶわよ」

華奈はその言葉に眉ひとつ動かさず、手の中の名器をそっと撫でた。

そして、顎当てに布も当てず素手で「夏夜の星」を構えると、無造作に右手の指先で四本の弦を弾いた。

――ピィン、ポロン……。

完璧な調律の上に成り立つ、息をのむほど純度の高い倍音がサロンの四方に響き渡った。

ただのピチカートであるにもかかわらず、その場の空気が一瞬にして浄化されるような神聖な余韻。

「……っ?!」

プロの演奏家を自称する桜花の肩が、激しく跳ね上がった。

楽器の鳴らし方、弦の振動を最大限に引き出す指の角度――それは、並大抵の音楽家では到達できない絶対的な領域の技術だった。

桜花は爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめ、青ざめた唇を震わせた。

そこへ、太田がビロード張りの特注ハードケースを抱えて小走りで戻ってきた。

華奈は丁寧に楽器をケースに収め、金色の留め具を静かに閉じた。カチリという硬質な音が、完全な決着を告げる。

「仁夫さん……仁夫さん、助けて……」

背後で桜花が震える手でスマートフォンを耳に当て、消え入りそうな声で泣きついていた。

『華奈さんが……私の目の前で、ひどいことを……』

華奈は桜花を一瞥することすらなく、ケースのハンドルを握って踵を返した。

「行くわよ、美月」

「ええ、最高の気分ね!」

美月はわざとらしく桜花たちの横を通り過ぎる際、軽蔑に満ちた笑みを投げかけた。

ガラスの自動ドアが閉まり、外の澄んだ秋風が華奈の黒髪を揺らした。手の中にある母の形見の重みだけが、確かな現実として残っていた。

その日の夜、午後九時。

鈴木邸の前に、黒塗りのマイバッハが滑り込んだ。

車から降りた仁夫は、苛立ちを隠せない様子で玄関のドアを押し開けた。

「華奈」

冷たい声を投げかけながら、習慣通りにスーツの上着を脱ぎ、虚空へと差し出す。

だが、上着を受け取る手は現れず、衣類は床の上にむなしく滑り落ちた。

仁夫は眉をひそめて顔を上げた。

いつもなら出迎えの明かりが灯り、温かいスリッパが揃えられているはずの玄関は、冷え切った闇に包まれていた。

「……華奈?」

返事はない。静寂だけが屋敷を満たしている。

日中の激務と、画廊でのトラブルを訴えてきた桜花からの度重なる泣き言のせいで、仁夫の神経は限界まで逆撫でされていた。

おまけに夕方からぶり返した胃の激痛が、みぞおちを錐で抉るように暴れている。

「おい、どこにいる。早く薬を持ってこい」

仁夫は苛立ちに任せてネクタイを引き抜くと、暗いリビングの照明を点けた。

目に飛び込んできたのは、昨日と寸分違わず整えられながらも、完全に無機質な空気を放つ空間だった。

ダイニングテーブルの中央には、冷め切った百合根のスープが入った土鍋が置かれている。

仁夫は吐き気を催すほどの痛みを堪えながらテーブルへ歩み寄り、いつも自分が使っている薬膳茶碗を持ち上げた。

その下から、純白の書類が滑り出た。

太い明朝体で印刷された文字が、仁夫の瞳に突き刺さる。

『離婚届』

『親権放棄同意書』

そして署名欄には、華奈の揺るぎない筆跡が黒々と刻まれていた。

「……何だと?」

仁夫の喉から掠れた声が漏れた。

心臓が不快なリズムで跳ね上がる。だが、すぐに激しい怒りがそれを塗りつぶした。

「くだらない茶番を……!」

仁夫は離婚届を鷲掴みにし、くしゃくしゃに握り潰して床へ投げ捨てた。

「画廊で恥をかかされた腹いせか。こんなもので俺を脅せると思っているのか?!」

激高したせいで胃痙攣が悪化し、仁夫はその場に片膝をついた。額から脂汗が滴り落ちる。

彼は這うようにしてリビングのキャビネットを開け、いつもの常備薬箱を引っ張り出した。

だが、箱の中は空っぽだった。

ラベルのない小瓶――華奈がいつも彼のために調合していた琥珀色の丸薬が、ひとつ残らず消え失せていた。

「おい! 誰かいないのか!」

仁夫が怒鳴ると、奥の勝手口から家政婦の渡辺ふみが恐る恐る姿を現した。

「だ、旦那様……」

「華奈はどこだ! 俺の薬はどうした?!」

ふみは床に散らばった書類の残骸と、苦痛に歪む仁夫の姿を見て、深々と頭を下げた。

「奥様は……昨夜、お荷物をまとめて出て行かれました。ご自身の私物以外は、何ひとつお持ちにならずに……」

「なぜ止めなかった!」

「私どものような使用人に、奥様をお止めする権利などございません……。それに、奥様のお顔は、もう二度と戻らないと決めておられるようでした」

「黙れ!」

仁夫はポケットからスマートフォンを取り出し、華奈の番号を荒々しくタップした。

耳元に当てた受話器から流れてきたのは、呼び出し音ではなく無機質な機械音声だった。

『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため――』

「くそっ!」

仁夫はスマートフォンを本革のソファへと投げつけた。

二階から、悠真の甲高い泣き声が響いてくる。

「パパ! お腹すいた! ママはどこ?! 絵本読んでくれないと眠れないよ!」

仁夫はズキズキと痛む胃を押さえ、暗い階段を見上げながら、激しい苛立ちと混濁した感情に呑まれていた。

(せいぜい意地を張るがいい。口座を止められれば、三日と持たずに泣きついてくるに決まっている)

彼は自分にそう言い聞かせ、バルコニーに出てタバコに火をつけた。冷たい風が吹き抜ける中、夜の闇を見下ろす仁夫の指先は、かすかに震えていた。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全67章

  1. 第1章第1章 五周年の冷雨と奪われた形見
  2. 第2章第2章 名琴の争奪と画廊での強烈な反撃
  3. 第3章第3章 妥協なき所有者と冷え切った食卓

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