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第2章 断崖のオリーブ見知らぬ男の電撃提案
ファミレスの空調の微かな唸りだけが、二人の間に落ちていた。
凛の頭の芯が痺れるように熱い。寒さのあまり幻覚を見ているのではないか、という疑念がよぎる。
「……私の名前をご存知なのですか?」
「封筒から覗いている謄本に書いてある」
暁は視線だけで彼女の胸元の封筒を示した。
「君の素性を深く知る必要はない。知るべきは、君が今誰かの鼻を明かし、理不尽な状況を塗り替えるための『既婚』という盾を必要としているかどうか。それだけだ」
男の言葉は外科手術のメスのように、凛が抱える最も深い屈辱と怒りの核心を抉り出した。
脳裏をよぎるのは、病室で勝ち誇っていた桃子の顔。圭哉の「一生愛されない」という呪詛。父・徳章の無情な怒声。
(失うものなんてもう、何一つ残っていない)
人生は一度、粉々に砕けている。ここで泥水をすすって実家に頭を下げるくらいなら、目の前の危険な男の手に乗る方がましだった。
「どうして私なのですか」
「君の目だ」
暁は一切の躊躇なく答えた。
「私は臆病で泣き叫ぶ女が嫌いだ。だが、お前の目はまだ戦うことを諦めていない。面倒な感情を持ち込まず、契約上の責務を果たせる女だと見極めた」
凛の口元に、冷たく研ぎ澄まされた微笑が浮かんだ。
「いいでしょう。お受けします」
暁の眉がほんの数ミリ動いた。驚きではなく、自らの見立てが正しかったことへの静かな満足。
暁は流れるように立ち上がり、財布から数枚の千円札をテーブルに置いた。
「立て。区役所が閉まる前に済ませるぞ」
店を出ると、雨は完全に上がっていた。
前に横付けされたのは、黒塗りの重厚なトヨタ・センチュリー。
後部座席のドアの前で、端正な顔立ちの若い秘書――井上隼が傘を畳んで控えていた。暁と凛の姿を見るや、完璧な角度で頭を下げ、ドアを開ける。
「専務、手配いたしました」
井上はそう呼んだが、凛の存在については何一つ疑問を口にせず、ただ恭しく会釈した。
レザーシートに体を沈めると、車内は静寂に包まれ、かすかに白檀の香りが立ち込めた。わずか数十分前、泥水を撥ねられた世界とは隔絶された空間。
車は再び千代田区役所へ滑り込んだ。
さっき圭哉に捨てられた同じ場所を、今度は圧倒的な存在感を放つ別の男と並んで歩いていく。
戸籍課の窓口には、先ほど凛の破談劇を遠巻きに見ていた職員が残っていた。その職員は、凛が息を呑むような美貌と冷徹なオーラを纏った長身の男を伴って現れたのを見て、あからさまに目を丸くした。
暁が内ポケットから取り出したのは、あらかじめ用意されていた婚姻届だった。
記載台に向かい、暁が万年筆を走らせる。夫の氏名欄に書かれた流麗な文字。
――鷹司 暁。
住址欄には、都内屈指の超一等地の番地。
凛は息を呑んだ。正午のテレビのニュース。「鷹司グループの新CEO」。ただの同姓同名ではない。この男は、日本の富の頂点に君臨する財閥の当主その人だった。
だが、暁の横顔は契約書にサインするビジネスマンそのものの冷淡さを保っている。
「次はお前の番だ」
手渡された万年筆は重く、凛の冷たい指先に暁の体温を伝えてきた。
凛は迷いを捨て、妻の欄に「藤堂凛」と署名し、持参していた柘植の印鑑を力強く捺印した。
証人の欄には、すでに秘書の井上隼ともう一人「橘圭佑」という男の署名捺印が整然と並んでいた。
書類を提出し、十数分の確認作業の後、番号が呼ばれた。
「鷹司様、手続きが完了いたしました。受理証明書をお渡しいたします」
職員から手渡された書類には、確かに『鷹司 暁』『鷹司 凛』の名が刻まれていた。
区役所を出たところで、暁は内ポケットから一枚の黒いカードを取り出し、凛の手に握らせた。
漆黒の地にシルバーの文字で「鷹司 暁」と電話番号だけ。肩書きはない。
「私の直通番号だ」
続いて、重厚な真鍮製の鍵を差し出してきた。
「港区のマンションの鍵だ。今すぐあの狭いアパートを引き払って移れ」
凛はその鍵を見つめ、静かに首を横に振った。
「鍵は結構です。住む場所なら自分で借りている部屋があります」
施しを受ける気はない、という毅然とした拒絶。暁の瞳の奥が一瞬だけ鋭く細められたが、無理強いはしなかった。
鍵を懐へ戻すと、暁は井上に短く命じた。
「奥様をご自宅までお送りしろ」
「かしこまりました」
井上が深々と一礼し、凛のために車のドアを開ける。
凛は乗り込む直前、車道に佇む暁を振り返った。
「私たちは……これからどうすればいいのですか?」
暁はポケットに手を入れたまま、感情を削ぎ落とした声で告げた。
「互いの私生活には干渉しない。ただし外では完璧な夫婦を演じろ。必要な時が来れば私から連絡する。お前の方から連絡してきても構わない。……各々の利害のために利用し合えばいい」
車が静かに発進し、バックミラーに映る暁の長身が小さくなっていく。
その車内で、暁は別のスマートフォンを取り出し、短縮ダイヤルを押していた。
『よう、暁。入籍届は無事に出せたのか?』
受話器の向こうから、証人欄に名を連ねていた親友・橘圭佑の陽気な声が響く。
「終わった。圭佑、すぐに一条彩華との婚約解消を全メディアにリークしろ。それから――私が既に別の女性と婚姻を済ませた事実もな」
電話の向こうで、息を呑む絶句の気配が広がっていった。
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