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第3章 人生を賭けた契約区役所での極秘入籍
目黒区の古い木造アパートの一室。 六畳一間のリビング兼寝室に足を踏み入れた瞬間凛は全身の関節から力が抜け玄関の上がり框にへたり込んだ。 現実離れした数時間の出来事が靴を脱いだ足裏の冷たいフローリングの感触によって急速に実感を帯びて押し寄せてくる。 今日会った男の名は鷹司暁。 正午のニュースで就任が発表されたばかりの鷹司グループの最高経営責任者。 戸籍簿の住所欄に記されていたのは日本経済の頂点に立つ財閥の本邸の番地だった。 なぜあの男がファミリーレストランの片隅の自分を見抜いたのか。 なぜ名前も知らない相手と即日入籍に踏み切ったのか。 答えの見えない問いが回廊のように続くが一つだけはっきりしていることがあった。 (私は藤堂の姓を捨てて鷹司の妻になった。後戻りはできない) 濡れたワンピースを脱ぎ捨て熱いシャワーを浴びた。 熱湯が頭皮を叩き強張っていた筋肉をほぐしていくが心の奥底に沈んだ鉛のような冷たさだけは溶けなかった。 曇った洗面台の鏡を手のひらで拭う。 映し出されたのは目の周りを赤く腫らした女の顔だった。 「……藤堂凛は今日死んだのよ」 鏡の中の自分に言い聞かせるように呟いた。 これからは誰かの期待に応えるためではなく自分を裏切った者たちに二度と踏みにじられないために生きるのだと。 髪を乾かし古びたスウェットに着替えてリビングに戻るとローテーブルの上に置かれた黒い名刺が目に飛び込んできた。 『鷹司 暁』。 漆黒の厚紙に浮き彫りにされたその名前を凛は引き出しの最も奥深くパスポートや通帳を保管している缶の底へと沈めた。 この婚姻はあくまでビジネスであり防壁だ。寄りかかるための杖ではない。 その時ローテーブルの上でスマートフォンがけたたましく震え始めた。 ディスプレイに表示された着信名を見て凛の胃が再び不快に収縮した。 ――父。 深く息を吐き出し感情を完全に平坦に整えてから通話ボタンを押す。 「はいお父様」 『凛!何をやってるんだ!』 第一声から鼓膜を破らんばかりの怒声が飛んできた。 娘の安否を気遣う言葉など爪の先ほども含まれていない。 『桃子から聞いたぞ! 圭哉君との入籍を放り出して行方をくらましたそうだな! 進藤コーポレーションとの提携が我が社にとってどれほど重要か貴様は理解しているのか!』 凛の胸の奥で冷たい炎が静かに燃え上がった。 「私が振ったんじゃない。圭哉さんが桃子を選んだんだ…」 『黙れ!』 藤堂徳章は娘の正論を力任せに怒鳴り散らしてねじ伏せた。 『桃子はまだ若い! それに怪我をしているんだぞ! 理由がどうであれ相手を繋ぎ止められなかった貴様の至らなさが原因だ! 家のために少しは役に立ったらどうなんだ!』 いつもの手口だった。 すべてを凛の責任に帰結させ罪悪感を植え付け家のための犠牲を正当化する。 10年間凛はこの呪縛に縛られ母の治療費や祖父の療養環境を守るために沈黙を選んできた。 『今週末佐々木ホールディングスの創立記念パーティーがある。貴様が代理で出席しろ』 徳章は有無を言わさぬ命令口調で続けた。 「……佐々木家? 桃子さんが出席する予定だったはずですが」 『桃子は足を痛めていると言っただろうが! 佐々木家の次男文彦氏はまだ独身だ。圭哉君との縁談が潰れた以上次の手を打たねば藤堂家の資金繰りが立ち行かん。パーティーで文彦氏に取り入り連絡先を取り付けてこい。これは決定事項だ』 頭の奥が冷徹な怒りで冴え渡っていった。 要するに進藤家への納品が失敗したから次は佐々木家へ娘を売り飛ばそうという魂胆だ。 長年会社の企画部で利益を出し続けてきた実績などこの男の目には一円の価値も映っていない。 「お断りいたします」 凛の声は自分でも驚くほど静かで滑らかだった。 電話の向こうが一瞬真空状態になったかのように静まり返った。 『……何だと?』 「佐々木家の酒会には出席いたしません。私は二度と藤堂家の体面を取り繕うための道具にはなりません」 『貴様……頭がおかしくなったのか?! 誰の金でこれまで育ってきたと思っている! 藤堂の姓を名乗っている以上貴様の人生はすべて私の――』 「藤堂の姓なら」 凛は言葉を遮り冷たく微笑んだ。 「もう名乗っておりませんから」 『は……? 何を訳の分からないことを――おい凛! 凛!!』 通話終了ボタンを押しそのまま端末をマナーモードに切り替えた。 激しい動悸が胸を打っていたが同時に全身の皮膚から重い枷が外れ落ちたような強烈な解放感が身体を駆け抜けた。 初めて父にノーを突きつけた。 その代償として実家からの経済的・社会的な庇護は完全に途絶えたのだ。 狭いキッチンに向かいやかんに火をかけた。 冷蔵庫の中には賞味期限が今日までの卵とわずかな水出し麦茶しかない。 インスタントの袋麺を鍋に放り込み待つ間の静寂の中で再び孤独が押し寄せてくる。 (これからどうやって一人で戦っていけばいいのか……) いや違う。もう一人ではない。 ピコンと控えめな電子音が鳴った。 テーブルのスマートフォンを覗き込むと未登録の番号からショートメッセージが届いていた。 『明日の午前10時グランドハイアット東京のラウンジに来い。契約の細部について詰める。鷹司 暁』 無駄の一切ない命令形に近い簡潔な文面。 しかし暗闇の中に放り出された凛にとってその文字列は奇妙なほど確かな手応えを持って彼女の存在を現実に繋ぎ止めた。 凛は涙を指先で乱暴に拭い一文字だけ返信を打ち込んだ。 『了解いたしました』
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