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第2章 手首を切った白月光と大洋の向こうからの招聘

送信保留のカーソルが点滅する画面を見つめ、遥は静かに息を吐いた。

今はまだ、一手打つべき順序がある。

ノートパソコンを閉じると、ベッドに横たわり、天井の木目を数えながら朝を待った。

午前6時を回った頃、階下から慌ただしい靴音と、一郎の切迫した通話の声が漏れ聞こえてきた。

『麻衣か。馬鹿な真似はよせ、今すぐ向かう』

玄関扉が重く閉ざされ、激しいエンジン音が朝の静寂を切り裂いて遠ざかっていった。

遥はベッドから起き上がり、洗面所で冷水を顔に叩きつけた。

鏡の中の自分は、驚くほど冷静な目をしている。

キッチンへ降り、自分の分だけマグカップにブラックコーヒーを注いだ。

かつて毎朝作っていた、一郎の好む半熟の目玉焼きも、出汁から取った味噌汁も、もう二度とこの手で作ることはない。

午前10時過ぎ。

再び庭に車が滑り込んでくる気配がした。

マグカップを手に階段を上がろうとしていた遥は、玄関が開く音に足を止め、踊り場から冷淡に階下を見下ろした。

一郎が助手席から抱きかかえるようにして連れ込んできたのは、青白い顔をした加藤麻衣だった。

その左手首には、これ見よがしに分厚い包帯が幾重にも巻かれ、薄っすらと赤い滲みが浮かんでいる。

だが、怪我を負った一郎を三年間にわたり手当てし、無数の包帯を巻き替えてきた遥の目には、その欺瞞があまりにも露骨に映っていた。

止血のための圧迫など微塵もかかっていない、ふんわりと巻かれたガーゼ。動脈を慎重に避けた極めて浅い位置に滲む、わずかな赤。

出血量を演出するためだけに皮膚をかすめただけの、計算され尽くした「見せるための傷」。

本当に命を絶つ覚悟など微塵もない、稚拙な茶番劇。

遥の唇角が、極めて淡く、冷ややかな弧を描いた。

指摘してやる価値すら感じない。

一郎は麻衣をリビングで最も上等なソファへと慎重に座らせると、階段の上に立つ遥を見上げ、何のためらいもなく尊大な声で命じた。

「麻衣はしばらくここで療養させる。二階の客室を片付けて、部屋を整えておけ。それから、あいつは胃腸が弱っている。日常の食事も麻衣の好みに合わせて、忌避食材に気を配れ」

遥の都合も意思も、最初から彼の勘定には入っていない。

拒絶されることなど万に一つも想定していない、すべてを己の意のままに差配できると信じ切った、絶対的な権力者の物言いだった。

遥は眉一つ動かさず、一言も返さないまま背を向けた。そして自室へと戻り、机の上の建築設計資料の整理を静かに再開した。

階下では、麻衣が一郎の腕にすがり、怯えた仕草を見せていた。

「一郎……やっぱり私、帰るね。柏田さんに迷惑をかけたくないの……私がここにいること自体、彼女を困らせちゃってるみたいだし……」

「馬鹿を言うな。お前は悪くない」

一郎はソファの脇に屈み込み、麻衣の肩を包むようにブランケットを掛けた。

キッチンから持ってきた白湯のマグカップを麻衣の手元へ運び、火傷をさせないよう自らの指先で温度を確かめた――その瞬間。

一郎の指先が、わずかに止まった。

三年前、交通事故で両脚の感覚を失い、荒れ狂っていた自分。

あの時、どんな暴言を浴びせても黙って受け止め、こうして白湯の温度を確かめては夜通し背中を擦り続けてくれた遥の姿が、ふと脳裏をよぎった。

だが、一郎にとってそれは「医療費を払ってやって引き取ったのだから当然の務め」であり、空気のように無意識に享受してきた日々に過ぎない。感謝どころか、それを遥の献身だと認識したことすら一度もなかった。

今、自分が麻衣を甲斐甲斐しく世話する手つきが、かつて遥から一方的に注がれていたケアを無意識になぞっていることにも――彼自身、まったく気づいていなかった。

(……何をくだらないことを思い出している)

一郎は小さく頭を振り、その記憶を何の価値もない雑音として思考の外へと追いやった。

麻衣がおずおずと上目遣いで、いかにも申し訳なさそうに呟く。

「でも……私がここにいたら、柏田さんが怒って出て行っちゃうんじゃない……? 私のせいで二人が壊れちゃったら、私……」

一郎は鼻で笑い、自信に満ちた傲慢な笑みを浮かべて麻衣の髪を撫でた。

「心配いらない。行く宛ても金もないあいつが、私から離れられるはずがないだろう」

誰のおかげでこの生活ができているのか、遥自身が一番理解しているはずだ――一郎はそう疑いもしなかった。

だが、まさにその同じ時刻。

二階の静まり返った客室で、遥はベッドの上にスーツケースを広げていた。

一枚ずつ丁寧に畳まれた仕事用のスーツ、数冊のスケッチブック。

彼女の指先には迷いも焦りもなく、淡々と、整然と荷物が詰められていく。

デスクのノートパソコンを開き、画面に表示された海外建築学会からの招聘状に目を落とした。

今度は迷うことなくキーボードを叩く。

「貴学会からの招聘を謹んでお受けいたします。国内での身辺整理が完了次第、速やかに渡航いたします」

送信ボタンをクリックすると、完了の通知が静かにポップアップした。

続けて、ロンドンの知人弁護士宛てに短いメールを作成した。かつて自身が国際建築コンペで最優秀賞を受賞した際、英国での意匠権登録や現地法人との契約交渉を専属で担当してくれた、国際法に精通した敏腕弁護士だ。若き天才建築家として世界を股にかけていた頃に築いた、確かな人脈の一つだった。

――『先日帰国した加藤麻衣について、英国での婚姻関係と現地の金銭トラブルに関する確認をお願いできますでしょうか』

送信を終えると、胸の奥の澱が一筋の冷気と共に吐き出されていくのを感じた。

引き出しから取り出した白紙の単身証明申請書に、万年筆で迷いなく署名を走らせる。

「あいつは離れられない」と階下で確信に浸る男の足元で、自分を縛り付けていた鎖が音もなく外れていくのを、遥はただ冷静に見届けていた。

携帯電話が短く震えた。

大学時代の恩師である坂本幸子総長からのメッセージだった。坂本は学生時代から遥の突出した才能を誰よりも高く買っており、結婚を機に一線を退いた彼女を惜しみ、事あるごとに教壇への復帰を熱心に打診し続けてくれていたのだ。

「遥、明日の特別講義の件だが、予定通り引き受けてもらえるだろうか。君の復帰を待ち望む声は想像以上だ」

数年ぶりに建築界へ姿を現す『若き俊英・柏田遥』の特別登壇は、すでに学内だけでなく業界関係者の間でも大きな話題となっていた。

遥は即座に「喜んでお引き受けいたします」と返信した。

立ち上がり、クローゼットから一着のスーツを取り出す。

指先で上質なウールをなぞる。富原邸でエプロンを締め、誰かの顔色を伺い続けた「無償の看護人」としての時間は終わった。世界に設計図を刻みつけていた頃の、自立した建築家としての矜持が、静かに胸の奥へ熱を取り戻していく。

続きを読みますか?

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全30章

  1. 第1章第1章 区役所の嘘と深夜のダイヤ
  2. 第2章第2章 手首を切った白月光と大洋の向こうからの招聘
  3. 第3章第3章 天才の隠匿と尊重されざる帰路

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