メインコンテンツへスキップ

第3章 天才の隠匿と尊重されざる帰路

翌朝、遥は濃灰色のスーツに袖を通し、ネクタイを隙なく締め上げた。

鏡に映る女の姿には、富原邸でエプロンを着けていた頃の卑屈な面影など微塵も残っていない。

ブリーフケースを手に取り、一階へと降りる。

ダイニングテーブルでは、一郎がスプーンで粥を掬い、麻衣の口元へと運んでいる最中だった。

革靴の硬質な足音が響くと、一郎が顔を上げ、遥の姿を目にして息をのんだ。

普段の部屋着やエプロン姿とは別人のような、圧倒的な存在感を放つ佇まい――その姿に、一郎の瞳が微かに動揺する。

「……何だ、その格好は。私の問いを無視してどこへ行く」

遥は立ち止まることなく、玄関へと歩を進めた。

「大学だ。建築学部の講義の打ち合わせがある」

「待て。誰の許可を得て動いている」

一郎の冷ややかな制止を聞き流し、遥は重厚な玄関扉を開けて外へ出た。

秋の冷気が頬を打つ。

タクシーを拾い、母校である名門大学の建築学部棟へと向かった。

総長室で坂本総長と簡単な打ち合わせを終えた後、遥は大階段教室へと案内された。

数百人を収容できる大階段教室は、講義の開始前から学生や若手研究者たちで座席が完全に埋め尽くされ、後方には立ち見が出るほどの熱気に包まれていた。かつて世界的な賞を総なめにした伝説的な若き建築家の登壇とあって、フロア全体がざわめいている。

演壇に上がった遥は、余計な自己紹介も前置きも口にしなかった。

無言のままホワイトボードに向かい、黒のマーカーを走らせる。

遥が講義を行ったのは、わずか十五分間。

現代建築の難問とされてきた不整形構造の耐震計算に対し、独自の幾何学的アプローチを取り入れた、極めてエレガントな革新的推導――。

迷いのない数式が美しく連なっていくにつれ、私語は完全に消え失せ、教室は水を打ったような静寂に呑み込まれていった。

カツン、と最後の数式を導き出し、マーカーを置いた瞬間。

最前列の教授陣が呆然と立ち上がり、次の瞬間には、雷鳴のような拍手と歓声が全フロアを揺らした。

割れんばかりのスタンディングオベーションの中、遥は軽く一礼するだけで、一切の誇示もなく静かに壇を降りた。

控室に戻ると、坂本総長が感嘆の吐息を漏らしながらその肩を叩いた。

「素晴らしい……圧巻だったよ、遥。来週からの集中講義で、学生たちに本物の設計の真髄を叩き込んでやってくれ」

「ありがとうございます。全力を尽くします」

大学を後にした遥は、郊外の霊園へと向かった。

花屋で買った白菊を抱え、静まり返った墓地を歩く。

育ての親である養父の墓石の前に立ち、手桶の水で丁寧に汚れを洗い流した。

墓石の冷たい感触に指先が触れた瞬間、遥の脳裏に、半年前に凍りついた記憶が鮮明に蘇る。

嵐が吹き荒れていたあの夜。

養父の容体が急変し、集中治療室の前で医師から「今夜が山だ」と告げられた。

あの頃の一郎との関係は、三年間の中で最も甘美で穏やかなものだったはずだった。献身的な介護を経て歩けるようになった一郎は、遥を抱き寄せ、「お前がいなければ今の私はない。私の本当の妻として、一生をかけて恩に報いる」と優しい言葉を囁き、新しい指輪を贈る約束すら交わしていたのだ。

だからこそ、信じていた。自分が窮地に陥れば、彼が必ず駆けつけてくれると。

震える指先で、夫であるはずの一郎に電話をかけ続けた。

一度、二度、三度……画面を見つめ、祈るように発信を繰り返した。

だが、十七回鳴らし続けたコール音は、ただ虚しく闇に溶けていくだけだった。一度として繋がることはなかった。

その夜、一郎は「麻衣が酷いうつで環境を変えたいと言っている」と、彼女を連れて北海道の高級温泉リゾートへと出かけていたのだ。

翌朝になっても、折り返しの電話はおろか、メッセージの一通すら届かなかった。

あの甘い誓いの数々は、麻衣が帰国するまでの退屈しのぎに過ぎなかったのだと知った瞬間、たった一人で冷たくなっていく養父の手を握りしめた遥の心の中で、一郎に対する情は完全に死に絶えた。

養父が息を引き取ったという事実を、遥は今に至るまで、一郎にも富原家の誰にも一言も伝えていない。

言う必要も、知らせる価値もないと、あの夜に完全に切り捨てたからだ。

墓前に白菊を手向け、遥は静かに手を合わせた。

(父さん、ようやく自分の足で歩き直せるよ)

冷たい秋風が吹き抜け、菊の花びらを微かに揺らした。

夕方、港区の富原邸へ戻り、リビングの扉を開けた瞬間、下品な笑い声が耳に飛び込んできた。

ソファの中央にふんぞり返っていたのは、一郎の妹である富原彩花だった。

「おいおい、噂をすれば帰ってきたな。うちのヒモ義姉さんがよ」

彩花は手元のライターをもてあそびながら立ち上がり、遥を値踏みするように見下ろした。

隣には、手首をさすりながら怯えた目を装う麻衣が座っている。

「なんだその小綺麗な格好は? 兄貴の金を使い込んで、どこで油売ってたんだよ」

麻衣がわざとらしく彩花の袖を引いた。

「彩花さん、やめなよ……。柏田さんだってプライドがあるんだから」

「プライド? 兄貴の脛かじって生きてる平民に、そんなものあるわけないでしょ!」

彩花は遥の胸元を人差し指で小突こうとした。

その瞬間、遥の鋭利な視線が彩花の手元を射抜いた。

「触るな」

低く硬い声に、彩花の指先が宙で止まる。

「な、なんだと……?」

「富原彩花。お前が先月六本木で溶かした二千万円の請求書、一郎がグループの交際費で誤魔化して処理した裏帳簿のデータ――まだ私の手元にあるが」

彩花の顔から、さっと血の気が引いた。

この三年間、一郎の私設秘書同然にグループ案件の図面監査や経理確認を代行させられていた遥にとって、富原家の杜撰な裏金の証拠を握ることなど造作もないことだった。

「な、何を言って……」

「父親に知られたら、お前の役員報酬は即座に凍結される。自分の立場を弁えてから口を開け」

その場に、氷を撒いたような沈黙が落ちた。

そこへ、玄関から買い物袋を提げた一郎が入ってきた。

「おい、何の騒ぎだ。リビングまで声が響いているぞ」

彩花は慌てて口をつぐみ、麻衣の隣へと逃げ戻った。

一郎は遥の冷徹な横顔を一瞥したが、事情を聞こうともせず、麻衣の元へ歩み寄った。

「麻衣、手首の痛みはどうだ。銀座でお前の好きそうなフルーツを買ってきた」

遥はその茶番劇に、完全に背を向けた。

階段に足をかけ、振り返りもせずに告げる。

「明日から一週間、大学の特別講義で泊まり込む。連絡は一切取らない」

一郎の眉が不快そうに寄った。

いつもなら自分の帰宅を待ち、静かに従っていた遥が、一言の相談もなく家を空けると告げる。胸の奥に、手綱を握っていたはずの存在がすり抜けていくような、微かな焦燥と不穏な違和感が走った。

だが、冷徹な支配者としての自負が、その動揺を即座に傲慢さで塗りつぶす。その声は荒らげることなく、低く冷酷な響きを帯びていた。

「一週間の泊まり込みだと? 勝手にスケジュールを決めるな。私の許可なく家を空けることは許さん」

だが遥は二度と立ち止まることなく、二階への階段を上りきった。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

続きを読む

章一覧

全30章

  1. 第1章第1章 区役所の嘘と深夜のダイヤ
  2. 第2章第2章 手首を切った白月光と大洋の向こうからの招聘
  3. 第3章第3章 天才の隠匿と尊重されざる帰路

新着