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第2章 朝の食卓と不穏な見出し
翌朝、午前七時。
一華は漆黒のトレンチコートを纏い、背筋を凛と伸ばして大理石の階段を降りていった。
毎朝のように俯き、陽介や使用人たちの顔色を窺っていた「控えめな奥様」の姿は、そこには微塵もなかった。
朝食の準備をしていた家政婦たちが、一華の張り詰めた空気に気圧され、思わず手を止めて顔を見合わせる。
ダイニングテーブルの端では、五歳の古賀宇樹が専用の椅子に座っていた。
首には銀色の喘息吸入器ホルダーをぶら下げ、退屈そうに銀のフォークで高級なボーンチャイナの皿を叩いている。
カチカチと耳障りな金属音が、静かなダイニングに響いていた。
一華は無表情のまま宇樹の元へ歩み寄り、その小さな手から静かにフォークを取り上げた。
「宇樹。食事の席で音を立ててはいけません」
宇樹は目を丸くし、いつものように甘えた声を張り上げた。
「だってパパが遅いんだもん! ママ、お腹空いた!」
普段の一華であれば、「ごめんね、すぐ用意させるわね」と優しく頭を撫でていたはずだった。
だが、一華はただ冷ややかな視線を落とすだけだった。
「待つのも作法です。座りなさい」
感情の一切こもっていない声に、宇樹はぎょっとして唇を尖らせ、椅子の端を落ち着かなさそうに擦った。
一華は自分の席につき、運ばれてきたホットミルクに口をつけようとした。
だが、温かい乳製品の匂いが鼻腔をくすぐった瞬間、強烈な吐き気が喉元まで押し寄せてきた。
(……くっ)
一華は眉ひとつ動かさず、カップを静かにテーブルの奥へと遠ざけた。
指先でカップの縁を押さえ、深呼吸を繰り返して胃の痙攣を鎮める。
ポケットの中で、スマートフォンが小刻みな振動を繰り返した。
取り出して画面を見ると、助手である真由からの業務連絡と、ひとつの週刊誌の速報リンクが届いていた。
画面をタップし、記事の見出しが目に入った瞬間、一華の目は冷たく細められた。
『国民的清純派女優・小杉蘭子、深夜の極秘逢瀬! 超大物メガ財閥当主との熱愛発覚か』
記事のトップには、都内にある最高級隠れ家レストランの裏口で撮影された、鮮明なスクープ写真が掲載されていた。
相手の男性には薄いモザイクがかけられているものの、「品川300」から始まる漆黒のマイバッハと、仕立ての良い細身のスーツ、そして知的な銀縁眼鏡の横顔。
古賀陽介以外の誰でもない。
そしてその隣には、純白のドレスを着て陽介の胸元にしなだれかかる小杉蘭子の姿。
左目の下にある特徴的な涙袋と艶やかな黒髪が、フラッシュの光に照らし出されている。
記事には、二人が昨夜の午前零時過ぎまで個室で過ごし、その後同じ車に乗り込んだと詳細に記されていた。
一華の心には、もう激しい痛みすら湧き上がらなかった。
ただ、乾いた冷笑が胸の底を満たしていく。
(あの後、家に帰ってきて私を抱いたのね……本当に吐き気がするほど汚らわしい)
「奥様」
不意に背後から硬質な声がかけられた。
古賀家本邸の執事、黒田忠則が音もなく立ち、慇懃無礼に頭を下げている。
「大奥様が、主楼の大広間へ今すぐお越しになるよう仰せです」
黒田の目には、一華を主人の妻として敬う色など毛頭なく、ただの厄介者を呼びつけるような冷たさに満ちていた。
一華はスマートフォンを伏せ、ゆっくりと立ち上がった。
「わかりました。朝食を終えたら伺います」
黒田の眉が微かに動いた。
普段なら「すぐに向かいます」と慌てて従っていたはずの女が、平然と言い放ったからだ。
「大奥様はお待ちになるのを酷く嫌われます。お急ぎになられたほうがよろしいかと」
「私の言葉が聞こえなかったかしら。朝食を終えたらと言ったのよ」
一華が冷徹な視線を向けると、黒田は思わず息を呑み、それ以上言葉を継ぐことができずに一礼して下がっていった。
宇樹が不安そうに一華を見上げる。
「ママ、おばあちゃん怒ってるの……?」
一華は、この五年間、毎晩のように絵本を読み聞かせ、熱を出せば一晩中抱きしめて看病してきたこの子供を見つめた。
目元や口元の造作が、誰に似ているのか。
今までは「戦友の面影」だと思い込もうとしていたが、冷静に見れば見るほど、あの写真の女の輪郭に酷似している。
胸が痛まないと言えば嘘になる。
だが、一華は静かに目を伏せ、淡々と告げた。
「大人の話よ。あなたはここで、大人しくパンを食べなさい」
***
本邸の敷地内を移動する送迎車に乗り、一華は主楼へと向かった。
車の窓を少しだけ開けると、晩秋の張り詰めた冷気が頬を撫で、車内に充満する重苦しい空気を払ってくれる。
スマートフォンが震え、陽介からの短いメッセージが表示された。
『母上に会うそうだな。余計な口答えはするな』
上から目線の、冷酷な命令文。
一華は返信すら打たず、トークルームをそのまま削除した。
感情を動かす価値すら、この男にはもうない。
車が主楼の車寄せに滑り込み、一華はドアを開けて外へ出た。
ピンヒールの乾いた音が、大理石の階段に鋭く響き渡る。
黒いトレンチコートのベルトをきつく締め直し、腹部の膨らみが完璧に隠されていることを確かめると、一華は大広間の重厚な扉の前に立った。
扉の向こうから、女たちの華やかな笑い声が微かに漏れ聞こえてくる。
姑である宇佐美琴代の機嫌の良さそうな声と、それに調子を合わせる、甘ったるく鈴を転がすような若い女の声。
一華は人差し指のタコを一度だけ強く押し、冷たい笑みを浮かべて扉を力強く押し開いた。
バアン、と大理石の壁に扉が当たり、鈍い音が響く。
広間に満ちていた笑い声が、一瞬で凍りついた。
上座の豪奢な革張りソファには、着物を着崩すことなく着こなした宇佐美琴代が座り、手元のマイセンのティーカップを止めていた。
その隣には、純白のニットワンピースを着た小杉蘭子が、親しげに琴代の腕に手を添えて座っている。
蘭子は一華の姿を認めるや否や、怯えたように肩をすくめ、潤んだ瞳で一華を見つめた。
「あら……一華さん、いらしたのね」
蘭子が立ち上がり、わざとらしく困ったような笑顔を浮かべる。
「ごめんなさい、急にお邪魔しちゃって。陽介さんがどうしてもって仰るから、大奥様にお茶のお相手をさせていただいていたの」
勝ち誇った女の、あまりにも露骨なマウント。
だが、一華の表情は微塵も揺るがなかった。
彼女は一歩一歩、確かな足取りで二人の前へと歩み寄ると、見下ろすように冷たい視線を蘭子へと注いだ。
「不法投棄されたゴミを見るような目で人を見るんじゃないよ、板谷一華!」
琴代がティーカップをソーサーに叩きつけ、甲高い声を張り上げた。
「蘭子さんは古賀家にとってかけがえのない大切なお客様だよ。罪人の血を引くあんたなんかが睨みつけていい相手じゃない!」
一華は視線を琴代へと移し、静かに口を開いた。
「大切なお客様ですか。他人の夫と深夜の密会を繰り返し、週刊誌に醜聞を晒すような女を招き入れることが、古賀家の伝統ある教育方針なのですか?」
「なっ……!」
琴代の顔が怒りで真っ赤に染まり、蘭子は顔面を蒼白にして胸を押さえた。
「一華さん……ひどい……私、陽介さんとは昔からの……っ」
「黙りなさい」
一華の一喝が、広間の空気を切り裂いた。
その圧倒的な迫力に、蘭子は言葉を失って立ち尽くす。
「あんた、自分が誰に向かって口を利いているのか分かっているのかい!」
琴代が立ち上がり、指を突きつけて叫んだその時、広間の通用口のドアが開き、大きな箱を抱えた宇樹が駆け込んできた。
「おばあちゃん! 蘭子ママが買ってくれたレゴ、すっごく大きいよ!」
無邪気な子供の声が、張り詰めた空間に響き渡った。
宇樹は一華の黒いコートを一瞥すると、少し怯えたように後ずさり、そのまま琴代と蘭子の足元へと駆け寄っていった。
「蘭子ママ、本当におばあちゃんとお話しして、僕のお母さんになってくれるの……?」
広間に、重苦しい沈黙が落ちた。
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