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第3章 剥がれ落ちた仮面

宇樹の無邪気な言葉が、広間の空気を凍りつかせた。

一華の視線が、宇樹の小さな背中へと注がれる。

胸の奥を鋭い刃で削られるような痛みが走ったが、爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめ、表情を一切崩さなかった。

小杉蘭子はわざとらしく困惑した表情を作り、宇樹の前にしゃがみ込んだ。

「宇樹ちゃん、ダメよ。大人の事情はね、もっと複雑なんだから……一華さんを困らせちゃいけないわ」

そう言いながら蘭子は宇樹の頭を優しく撫で、その小さな体を自分の方へと引き寄せた。

宇樹は蘭子の首元から漂う濃密な薔薇の香りに小さく鼻をこすりながらも、抱え込んだ限定版の巨大なレゴブロックの箱を誇らしげに抱き直した。

百万円以上する、海外のオークションでしか手に入らない希少な玩具。

物で子供の心を買い叩く、あまりにも安っぽい手口だった。

「ふん、子供は正直なものさ」

宇佐美琴代が勝ち誇ったように鼻を鳴らし、着物の袂を整えながらソファに深く腰掛け直した。

「板谷一華、宇樹の言う通りだよ。陽介はもう、あんたとの離婚手続きを進めるつもりでいる。五年間も古賀家にいながら跡取りのひとりも産めない役立たずの女など、これ以上置いておく理由がないんだよ」

跡取りのひとりも産めない女――。

その言葉を聞いた瞬間、一華の左手は自然とコートの上から腹部へと向かいかけた。だが、寸前で思いとどまり、指先をポケットの縁へと滑らせた。

(この人たちに、私の子の存在を知らせる必要なんてない。古賀家の汚れた血筋になど、絶対に渡さない)

蘭子が立ち上がり、憂いを帯びた瞳で一華の正面へと歩み寄ってきた。

そして、琴代には聞こえないほどの微かな囁き声で、嘲笑を滲ませて告げた。

「一華さん、五年間も陽介さんの隣の席を温めてくれて本当にありがとう。でもね、借り物は返してもらわないと」

一華は冷徹な眼差しで、至近距離にある蘭子の顔を見据えた。

「週刊誌のモザイク越しでも隠しきれない安っぽさね、小杉さん。他人の夫に縋り付いてしか世間に存在を誇示できないなんて、三流女優の落ちぶれ方も哀れなものだわ」

「なっ……!」

蘭子の整った顔が一瞬で引き攣った。

瞳に毒々しい怒りが宿り、彼女はわざとらしく後ずさりながら、広間に響き渡る大声で泣き叫んだ。

「一華さん! そんなに私を責めないでください! 私だって……私だって五年前、陽介さんのキャリアのために泣く泣く身を引いたんです! 陽介さんを愛しているからこそ、今まで耐えてきたのに……!」

大粒の涙が、蘭子の白磁のような頬を伝い落ちる。

琴代が即座に立ち上がり、蘭子の肩を抱き寄せた。

「蘭子さん、泣くことはないよ! あんたが古賀家のためにどれほどの犠牲を払ってくれたか、この私が一番よく分かっている!」

そして琴代は、猛禽のような鋭い視線を一華へと突き刺した。

「板谷一華! あんたのような薄汚い罪人の娘が、古賀家の正妻面をして蘭子さんを侮辱するなど言語道断だ! 今すぐ土下座して謝りなさい!」

「謝罪?」

一華は乾いた声で笑った。

「泥棒猫に頭を下げる飼い主がどこにいるのかしら。盗品を抱えて居直る犯罪者に付き合う時間はありません」

「この……っ、あんた何様のつもりだい!」

激高した琴代が右手を振り上げ、一華の頬を打とうと踏み出してきた。

だが、その平手打ちが一華の肌に触れることはなかった。

パシッ、と乾いた音が響く。

一華が空中で琴代の手首を正確に、そして強烈な力で掴み取ったのだ。

「……なっ、離しなさい!」

「五年間、義母として立てて差し上げましたが、それも今日で終わりです」

一華の冷たい眼差しが、琴代の瞳を射抜く。

「私にはもう、あなたのヒステリックな暴力に付き合う義務はありません」

掴んだ手を強く押し戻すと、琴代はバランスを崩し、ソファの上へと無様に倒れ込んだ。

「ひっ……!」

その様子を見た宇樹が、突然顔を真っ赤にして激しく咳き込み始めた。

ゲホッ、ゲホッと、喉を掻きむしるような苦しげな音が広間に響き渡る。

「宇樹!」

一華は反射的に身体を動かしていた。

目の前の女たちへの怒りよりも、五年間育ててきた子供の生命の危機が勝ったのだ。

立ち塞がろうとした蘭子を力強く押し退け、床に膝をついて宇樹を抱き起こす。蘭子は「きゃっ!」と短い悲鳴を上げて床に倒れ込み、「足が……っ」と大袈裟に痛がり始めたが、一華は一瞥すらしなかった。

宇樹の胸元にあるホルダーから吸入器を取り出し、手際よくノズルを口元にあてがう。

「宇樹、息を吐いて。そう、吸って……もう一回」

的確な処置によって吸入薬が気管へと行き渡り、数分後には、宇樹の荒い呼吸が徐々に落ち着きを取り戻していった。

汗に濡れた前髪をかき上げてやると、宇樹は弱々しく「ママ……」と呟いた。

その瞬間、一華の胸に微かな切なさが去来した。

だが――。

「宇樹! 私の大切な宇樹ちゃん!」

立ち上がった蘭子が無理やり割り込み、一華の腕の中から宇樹を乱暴に奪い取った。

「ママが悪かったわ、驚かせちゃって……! もう大丈夫よ、ママがずっと側にいるからね!」

蘭子は宇樹を抱きしめ、さも自分が救い出したかのように涙を流して見せた。

一華の腕の中に残ったのは、冷たい空気だけだった。

虚しさが急速に心を凍らせていく。

琴代が息を荒げながら立ち上がり、背後に控えていた執事の黒田から分厚い茶封筒を受け取った。

そして、それを一華の足元へと投げ捨てた。

バサリ、と書類が床に散らばる。

「……何の真似ですか」

一華が低く問う。

琴代は醜悪な笑みを浮かべ、顎をしゃくった。

「自分で見なさい。あんたが五年間、他人の子を必死に育てていた滑稽な姿の結末だよ」

一華はゆっくりと視線を落とし、散らばった書類の表紙を見た。

そこには公的な鑑定機関のロゴとともに、大きな黒文字が印字されていた。

『DNA親子鑑定報告書』

封筒から書類を抜き出し、結論が記された最後のページへと指を滑らせる。

そこには、明確に記されていた。

『被鑑定者A(小杉蘭子)と被鑑定者B(古賀宇樹)の間には99.99パーセントの確率で生物学的親子関係が認められる』

一華の視界が一瞬だけ白く染まった。

宇樹は殉職した戦友の子供などではなかった。

(小杉蘭子が実の母親なら……この子の父親は、陽介しかいないではないの)

(私は……この五年間、夫とその愛人の子供を、何も知らずに必死で育てさせられていたの……?)

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全51章

  1. 第1章第1章 染みついた香水の匂い
  2. 第2章第2章 朝の食卓と不穏な見出し
  3. 第3章第3章 剥がれ落ちた仮面

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