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第2章
「あの……さっきのは」 瑞樹の頬が気まずさで赤く染まった。彼女は無意識に、ぶつかった衝撃で少し乱れた髪を直す。 三浦信太郎の視線は穏やかだった。好奇や嘲笑の色は一切浮かんでいない。 「怪我はなかったか」 ただそれだけを尋ねた。 彼の落ち着いた態度に、瑞樹は少しだけ安堵する。彼女は小さく首を振った。 「ううん、平気。ごめんなさい、私の方が不注意で」 ラウンジの奥から、井上の怒鳴り声がまだ微かに聞こえてくる。先ほどの惨劇を思い出させ、瑞樹は身を縮めた。 信太郎はラウンジの方へ一度目をやり、そして瑞樹に向き直った。 「ここは話す場所じゃない。少し場所を変えないか」 断る理由が見つからなかった。今の瑞樹は気持ちの整理がつかず、一人きりになりたくなかった。彼女はまるで何かに導かれるように、こくりと頷く。 信太郎は瑞樹を連れてホテルのロビーを抜け、より静かな隅のコーヒーバーへと向かった。 二人掛けのテーブル席に向かい合って座る。信太郎はごく自然な仕草で、彼女のためにホットミルクを注文した。コーヒーではなかった。 意外に思う瑞樹に、信太郎が説明する。 「こんな時間にコーヒーを飲むと、眠れなくなるだろう」 その細やかな心遣いが、ささくれ立った瑞樹の心を温めた。彼に対する警戒心が、また少しだけ解けていく。 沈黙が二人の間に流れた。瑞樹は先ほどの自分の失態をどう説明すればいいのか、言葉を探せずにいた。 沈黙を破ったのは、信太郎の方だった。 「何年も会わないうちに、すっかり綺麗になったな」 「からかわないでよ」 瑞樹は自嘲気味に笑った。 「さっきの乱暴なところも、全部見てたんでしょう」 「いや」 信太郎は静かに首を振った。 「理不尽なことに我慢しないところは、昔のままだと思った。感心したよ」 彼の声には非難の色はなく、むしろ称賛の響きがあった。 その一言がまるで鍵だったかのように、瑞樹の心の扉を開いた。堰を切ったように言葉が溢れ出す。 母親がどれだけ執拗に見合いをセッティングしてくるか。 「あなたのため」という言葉で、いかに自分を追い詰めてくるか。 信太郎はただ黙って耳を傾けていた。時折相槌を打つ彼は、完璧な聞き役だった。 感情が高ぶり、瑞樹は、自分でも忘れていたはずの元恋人中村大輝のことまで口にしていた。二人でカフェを開くことを夢見て、一緒に働いていたこと。そして、彼が裕福な家の娘に乗り換え、自分を捨てたこと。 「もう貧乏な生活はうんざりなんだ。お前じゃ俺の望む未来は与えられない」 それが、中村大輝が最後に言った言葉だった。 瑞樹の瞳が潤み、声が微かに震える。 「だから……だから私、お金で全てを判断するような人が一番嫌いなの」 その言葉は図らずも、信太郎の胸に突き刺さった。彼はコーヒーカップを握る手に力を込める。その瞳に複雑な色が浮かんだ。 目の前の壊れそうなほど脆く、それでいて強い芯を持つ女性を見つめる。彼の心の中で一つの決意が、より一層固まった。 瑞樹は自分がしゃべりすぎたことに気づき、恥ずかしそうに目元を拭った。 「ごめんなさい。あまり親しくもないのに、くだらない話ばかりして」 「親しくないなんてことはない。俺は達也の同級生だ」 信太郎は兄の名前を出し、巧みに距離を縮めた。 彼は腕時計に目を落とす。 「もう遅い。家まで送るよ」 瑞樹は断らなかった。今の彼女には、高ぶった感情を落ち着かせるための安全な時間が必要だった。
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