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第3章
信太郎の車は静かだった。瑞樹は助手席に座り、窓の外を流れていく夜景をぼんやりと眺めていた。彼の隣は、不思議と居心地が良かった。 この車は年季が入っているように見えるが、内装は驚くほど手入れが行き届いている。瑞樹は車に詳しくない。ただ、持ち主が物を大切にする人なのだろうと思った。 沈黙を破るために、瑞樹が口を開く。 「そういえば、お兄ちゃんに全然会ってないな。最近どうしてるの?」 「相変わらずだよ」 信太郎はハンドルを握りながら、大学時代の兄の面白いエピソードをいくつか話してくれた。車内の空気が和やかになる。 その時だった。 瑞樹のスマートフォンの着信音が甲高く鳴り響き、穏やかな雰囲気を破壊した。 画面に表示された「母」という二文字を見て、瑞樹の顔が瞬時にこわばる。 一瞬ためらった後、彼女は着信を無視して画面を伏せた。 信太郎は彼女の表情の変化に気づいていたが、何も言わなかった。 だがスマートフォンは諦めずに、再び鳴り始める。瑞樹は苛立ちを隠せず、自分の髪をかきむしった。 観念して通話ボタンを押す。バッグの中から家の鍵を探していたため、無意識にスピーカーモードにしていた。 『瑞樹!井上さんから電話があったわよ!一体どういうことなの!』 母親の甲高い声がスピーカーから響き渡った。 『あの人とは合わないの』 瑞樹は疲れた声で答える。 『何が合わないですって!あれだけの好条件、他にないのよ!それに何?コーヒーをぶちまけるなんて!あなたの教養はどこへ行ったの!』 母親は瑞樹の言い分など、聞く耳を持たない。 信太郎がハンドルを握る指に、ぐっと力が入る。彼の横顔から表情が消えた。 『結衣ちゃんを見習いなさい!橘さんのところの結衣ちゃんよ!良いところに嫁いで、今じゃ悠々自適じゃない!それに比べてあなたは!あの儲からないカフェにしがみついて、何になるの!』 『玉の輿こそが女の幸せなの!あなたにはそれが分からないの!』 母親が押し付ける価値観に、瑞樹は息が詰まりそうだった。 『私の幸せは私が決める。忙しいから切るわ』 瑞樹は冷たく言い放ち、一方的に通話を終了させた。 車内は再び静寂に包まれる。先ほどよりもずっと重く、気まずい沈黙だった。 瑞樹は頭を窓ガラスにこつんと当てた。心も体も疲れ果てていた。 彼女は自嘲と八つ当たりの混じった口調で、信太郎に尋ねる。 「あなたもそう思う?女は金持ちと結婚しないと、幸せになれないって」 「幸せの形は人それぞれだ。他人に決めつけられるものじゃない」 信太郎は静かに答えた。彼の揺るぎない声が、瑞樹の荒んだ心を再び鎮めていく。 その時、ふと瑞樹の頭に突拍子もない考えが浮かんだ。 「そういえば豪邸といえば……東京で一番のお金持ちって、確か……三浦家だったかしら」 母親の「玉の輿」という言葉から、ただ連想しただけだった。目の前の男と同じ苗字であることなど、全く意識していなかった。 信太郎の心臓がかすかに跳ねた。だが、彼の表情は変わらない。視線はまっすぐ前方の道路に向けられたままだ。 彼はごく平坦な声で答えた。 「ああ、そうらしいな。経済ニュースで時々名前を見る」 あまりにも自然な反応だった。瑞樹は全く疑うことなく、「へえ」とだけ返事をして、再び窓の外に目を向けた。 正体が暴かれかねない最大の危機は、信太郎の完璧な演技によって回避された。 やがて車は、瑞樹が住むアパートの前で静かに停車した。 瑞樹はシートベルトを外し、彼に礼を言って車を降りようとした。今夜はもう何も考えず、ただ眠りたかった。 だが、彼女は車を降りることができなかった。 母親の怒声が、頭の中で反響する。どうしようもない無力感が彼女を襲った。 彼女は隣に座る男の横顔を見た。ほんの数時間前、自分を支えてくれたこの男を。 狂った考えが頭をもたげた。 「三浦くん……ううん、信太郎さん」 ためらいがちな声で呼びかける。 信太郎は黙って彼女の方を向いた。その瞳が先を促している。 瑞樹は勇気を振り絞り、早口で言った。 「すごく……すごく失礼なお願いがあるんだけど……私の彼氏のフリをしてもらえませんか」
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全80章
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