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高畑邸の夜は雨に包まれていた。

結婚三周年の内輪食事会の日がやってきた。

偽りの夫婦の仮面をまだ剥がさなければならない莉央は、平静な仮面を顔に貼り付け、指定された会員制料亭へと向かった。

赤坂の路地裏に佇む、完全会員制の高級料亭。

雨に濡れる枯山水の庭を臨む座敷には、重苦しい空気が漂っていた。

下座には、シンプルな黒のウールアンサンブルを身にまとった莉央が静かに腰を下ろしている。

上座の中央には亮佑。

そしてその隣には、鮮やかな桜色の訪問着を着流した麻衣が、当然のような顔をして座っていた。

「莉央さん、ごめんなさいね。急に胃が痛くなってしまって……亮佑さんが心配して連れてきてくださったの」

麻衣は口元を手で隠しながら、勝ち誇ったような視線を莉央へ投げかけた。

亮佑は何の悪びれもなく、麻衣の前に温かい茶を差し出しながら冷ややかに言った。

「麻衣は体が弱いんだ。結婚記念日とはいえ、内輪の食事会だろう。細かい形式にこだわるな」

妻としての尊厳を平然と踏みにじる言葉にも、莉央の心にはさざ波一つ立たなかった。

彼女は膝の上に置いていた黒いリボンの化粧箱を、漆塗りのテーブルの中央へと静かに押し出した。

「三周年の記念です。亮佑専務、どうぞご自身でお確かめください」

亮佑は鼻で笑い、機嫌を取るためにまた限定の高級品でも買ってきたのだろうと高をくくりながら、リボンを解いた。

箱の蓋を開けると、上段には莉央が自ら研磨した極微細半導体の回路パターンを刻み込んだ、シルバーのネクタイピンが収められている。

「あら、素敵なタイピン!」

麻衣がわざとらしく身を乗り出し、タイピンを奪い取ろうとした拍子に、袖口が箱の下段のトレイに引っかかった。

トレイがずれ、底に敷かれていた白い書類の一端が露わになる。

――高畑亮佑の直筆署名入り協議離婚協議書。

だが、運ばれてきた刺身の盛り合わせに気を取られた亮佑は、書類の端に書かれた「合意書」の文字を一瞥しただけで、先日の偽装離婚の書類だと決めつけた。

「おい、こんな場所にまで会社の書類を持ち込むな。興が削げる」

亮佑は不機嫌そうにトレイを押し戻し、箱の蓋を乱暴に閉めた。

真実を暴く鍵は、再び闇の中へと沈む。

その時、急激な冷え込みと低血糖が重なり、莉央の下腹部に鋭い激痛が走った。

二年前の事故以来、過度のストレスがかかると発作的に現れる後遺症だった。

さっと血の気が引き、指先が急速に冷たくなっていく。

莉央は畳に手をつき、奥歯を噛み締めて激痛に耐えた。

「失礼します」

立ち上がった莉央は、投げ捨てられていたネクタイピンとバッグを手に取り、足早に部屋を出た。

「おい、莉央!」

背後から亮佑が呼び止める声が聞こえたが、麻衣が「亮佑さん、胸が苦しい……」と甘えた声を上げたため、その足音が追ってくることはなかった。

料亭の勝手口から外へ出ると、冷たい雨が土砂降りに吹き荒れていた。

視界が歪み、濡れた石畳の階段で足がもつれる。

崩れ落ちそうになった莉央の体を、漆黒の大きな傘と、鉄のように強靭な腕が受け止めた。

「――無茶をするなと言ったはずだが」

冷気を帯びた高級カシミアコートの感触と、重厚なシダーウッドの香りが鼻腔をくすぐる。

見上げると、そこには彫刻のように整った冷徹な美貌を持つ男――――千賀景が立っていた。

冷たく鋭い黒眸が、雨の雫に濡れた莉央の顔を射抜くように見つめている。

「千賀……総帥……?」

千賀は返答の代わりに、莉央の華奢な体を軽々と横抱きに抱え上げた。

「細田、車を回せ」

「かしこまりました」

待機していた特命秘書の細田譲哉が、即座にマイバッハのドアを開ける。

車内の暖房が、凍えきった莉央の肌を包み込んだ。

千賀は乾いたタオルを取り出すと、莉央の額に張り付いた髪と雨粒を、驚くほど丁寧な手つきで拭い取っていく。

「離してください……服が汚れます」

莉央が身を引こうとした瞬間、手の中にあったシルバーのネクタイピンが、二人の膝の間に転がり落ちた。

千賀の視線が、そこに刻まれたナノスケールの量子回路パターンに留まる。

「これは……」

「助けていただいた、せめてものお礼です。差し上げます」

莉央のかすかな声に、千賀の口元がわずかに綻んだ。

男は迷いなくタイピンを拾い上げると、自らの黒いシルクタイの胸元へと正確に留めた。

「一度受け取ったものを返す気はない」

千賀の長い指が莉央の冷え切った顎先を軽く持ち上げ、その瞳を捉えた。

「お前の頭脳も、その体も――高畑のような俗物にくれてやるには惜しすぎる」

車が滑るように発進し、千賀グループ傘下の総合病院へと向かう。

バックミラーの遠くで、料亭から慌てて飛び出してきた亮佑の姿が、雨煙の彼方へと小さく消えていった。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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  2. 第2章第2章
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