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港区の閑静な高級住宅街に佇む高畑家の私邸は、深い静寂に包まれていた。

地下駐車場に車を停めた莉央は、重い玄関ドアを開けて邸内に入る。

すでに灯りは落とされ、家政婦の田中シズも私室へ下がったようだった。

莉央はリビングの明かりを点けず、書斎のデスクランプだけを灯した。

机の上には、先ほど長瀬から極秘裏に届けられた二通の公文書が並べられている。

左側にあるのは、千賀先端技術特区の主任科学者就任承諾書。

年俸欄には、三億円という破格の数字が印字されていた。

右側にあるのは、弁護士が法的要件をすべて満たすよう作成した協議離婚協議書。これに署名押印すれば後日離婚届の提出が可能になる。

莉央は万年筆を手に取ると、就任承諾書の末尾に鋭い筆致で署名した。

「クロエ(Chloe)/豊原莉央」

その時、玄関ホールの重い扉が乱暴に開く音が響いた。

千鳥足の靴音と、鍵が金属に擦れ合う耳障りな音が静寂を破る。

莉央は表情を変えぬまま、千賀コンツェルンの契約書をデスクの隠し引き出しへと滑り込ませた。

そして本物の離婚協議書を、高畑グループの四半期資産査定報告書の束の中ほどへと挟み込む。

「おい、莉央」

書斎のドアが乱暴に押し開けられた。

ネクタイを緩めた亮佑が、高級ウイスキーのきつい酒気と、甘ったるい麻衣の香水の匂いを漂わせながら入ってくる。

「こんな時間まで起きて、何をぐずぐずしている。高畑の妻としての自覚を持て」

亮佑は傲慢に言い放ち、上着を革張りの椅子へと放り投げた。

莉央は立ち上がり、わずかに視線を伏せてみせる。冷淡な光を宿した瞳を、男に見られないように。

「資産の整理をしておりました」

「ふん」

亮佑は鼻を鳴らし、スーツの内ポケットから四つ折りにされた書類を取り出すと、机の上に叩きつけた。

ホテルで麻衣に見せていた、あの偽造の離婚合意書だ。

「これにサインしろ。近々、海外ファンドとの大型買収案件がある。リスクヘッジのための一時的な偽装離婚だ。お前のような世間知らずには理解できんだろうが、三十日間大人しくしていろ」

平然と嘘を吐く男の顔を、莉央は静かに見つめ返した。

「これに署名すれば、三十日間、私は自由に行動してよろしいのですね?」

「ああ。大人しく従うなら、三十日後には元の生活に戻してやる。高畑家の庇護がなければ、お前など東京で生きていけんだろうからな」

莉央は迷うことなくペンを取り、偽造書類の署名欄に自分の名前を滑らせた。

躊躇のないその動作に、亮佑の口元へ満足げな笑みが浮かぶ。

やはりこの女は自分に逆らえない――――完全に手飼いの従順な鳥だと思い込んでいるのだ。

「それから、亮佑さん。法務部からこちらの資産譲渡の確認書類にも、専務のサインが必要だと預かっております」

莉央は先ほどの資産査定報告書の束を差し出した。

付箋の貼られた署名欄だけが露出しており、その上にある『配偶者財産分与および離婚合意条項』の文言は巧妙に隠されている。

亮佑はひどい二日酔いと疲労のせいで、細かい条文を読む気すら起きない様子だった。

「面倒な書類を……」

男は舌打ち混じりにモンブランの万年筆を走らせ、勢いよく署名した。

――高畑亮佑。

高畑亮佑の直筆サインが入った離婚協議書への署名が完了した瞬間だった。

紙の上に落ちたインクを見つめる莉央の胸の奥で、重く冷たい鎖が砕け散る感覚があった。

「来週は結婚記念日だ」

亮佑はペンを投げ出し、恩着せがましく莉央の肩へ手を伸ばそうとする。

「聞き分けのいい妻には、相応の褒美をくれてやる」

莉央は書類をまとめる仕草で、ごく自然に半歩身を引いた。

男の指先が空を切る。

亮佑は不快そうに眉を寄せたが、追及するのも億劫そうに吐き捨てた。

「愛想のない女だ」

男が書斎を出て寝室へと消えていくと、莉央は報告書の中から亮佑の直筆サインが刻まれた本物の協議離婚協議書を引き抜いた。

それを千賀コンツェルンの契約書と共に、耐火金庫へと丁重に収める。

窓の外では、夜の雨が激しさを増していた。

デスク上のスマートフォンがかすかに震え、長瀬からの暗号化メッセージが届く。

「千賀総帥自ら、お前の量子力学アルゴリズムの論文に目を通された。彼が書き加えた修正案を転送する」

添付ファイルを開いた瞬間、莉央の呼吸が止まった。

画面に並ぶ独特の数式展開と、厳格でありながら美しい論理構造。

それは――――二年前に突然連絡を絶ったネット上の恩師にして、唯一の理解者である『万物のパラドックス』の手法と、恐ろしいほどに酷似していた。

千賀景の頭の良さは聞いていた。だがこのレベルの理論を扱える人物が世の中に何人いるのか。ぼんやりと疑念が胸をよぎったが、確証は何もなかった。

続きを読みますか?

読み進めると物語が続きます。

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  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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