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第2章 彼のところに忘れもの
「どこに行っていたんだ、詩織。香理がお前が一晩中帰らなかったと言っていたぞ。自分の立場を分かっているのか」
篠崎詩織が玄関に足を踏み入れた途端、響き渡る厳しく太い男の声が飛んできた。その声に続いて、水の入ったグラスが彼女の額めがけて飛んでくる。
詩織はとっさに身をかわし、グラスは彼女の眉と目のすぐそばをかすめて、背後の柱にぶつかり、音を立てて砕け散った。
リビングでは、篠崎栄一が上座に座り、その老いた顔には怒りが浮かんでいた。彼の隣には、母娘が寄り添って座っている。
その三人が仲睦まじくしている様子を見て、詩織は鼻で冷笑を漏らした。
彼女がまだ幼い頃、父親は飛行機事故で亡くなった。母親は父親の弟と再婚し、二人は父親の会社を奪い取った。結婚後、篠崎香理が生まれ、詩織はこの家で邪魔な存在となった。
「お姉ちゃん、昨夜は連絡が取れなくて、みんな心配していたのよ」 白いワンピースを着た香理が立ち上がり、詩織の元へ歩み寄ると、親しげに彼女の腕に絡みついた。そして詩織の首元に視線を留めると、そのまま襟元を引っ張り、驚いたように大声を上げた。
「まあ、お姉ちゃん、まさか昨夜は男の人と寝たんじゃないの」
篠崎栄一と篠崎悦子が近づいてきて、詩織の体に鮮明なキスマークがあるのを見ると、二人の顔色は瞬く間に険しくなった。
母親の悦子は怒りを露わにし、手を振り上げて彼女の頬を平手打ちした。「詩織、私は普段からそんな風に教えてきたのかい。誰とでも好き勝手に寝ていいと」
詩織の頬は打たれてひどく痛み、口元からは血が滲んだ。
彼女は顔を上げ、冷たい瞳で悦子を見つめ返した。「お母さん、あなたまでが、事情も聞かずに私を侮辱するの?」
悦子は彼女の瞳に浮かぶ悲痛な色を見て、一瞬顔をこわばらせた。
栄一は怒り心頭に発し、力任せにテーブルを叩いた。「もし藤村家にこの醜聞が知れたら、我々家族全員が破滅だ。このふしだらな娘め、よくも藤村社長に恥をかかせたな」
詩織の心に火が灯ったかのように、冷たく反論した。「当初、藤村家の御当主が縁談を持ちかけてきた時、結婚相手はあなたの娘だったはず。私に無理やり嫁げと迫ったくせに、その時はどうして私をふしだらだと罵らなかったの」
「お前」栄一は彼女の反論に言葉を失い、顔色を青ざめさせたり白くさせたりした。
悦子は詩織を見て叱責した。「詩織、叔父さんにそんな口の利き方をしてはいけません」
詩織はそれを無視し、傍らに立つ香理に視線を向けた。「昨夜、私の酒をすり替えて、わざと私を陥れたのはあなたね」
香理は顔を上げ、無邪気な表情で言った。「お姉ちゃん、何を言っているの。私がそんなことをするわけないじゃない。あなたを陥れて、私に何の得があるっていうの」
詩織は冷たい瞳を細め、鋭い視線で彼女を射抜いた。
もし昨夜、彼女と寝た相手が駿介ではなく、他の男だったら、このことが藤村家に知られた時、彼女は生きていられなかっただろう。
香理は常に彼女に敵対し、彼女が早く死ぬことを願っている。
栄一はすでに使用人に鞭を持ってこさせ、家長としての威厳を保ちながら彼女を叱りつけた。「詩織、今日こそはお前を厳しく躾けてやる。二度と我々家族に災いをもたらさないよう、思い知らせてやる」
香理は、詩織に対する軽蔑の念を瞳に宿し、幸災楽禍の表情でその様子を見ていた。
栄一が鞭を振り上げた。
鞭が振り下ろされようとしたその時、詩織は突然手を伸ばしてそれを力強く掴み、一気に奪い取ると、香理の方へ振り回した。
香理は身をかわしきれず、腕に鞭の跡が残り、血が滲んだ。彼女は恐怖で大声を上げた。「詩織、何をするの」
栄一もこの光景に驚き、怒って詩織を指差した。「このふしだらな娘め、よくも香理に手を上げたな」
詩織は冷ややかに彼らを見つめた。「叔父さん、あなたの可愛い娘をしっかり躾けて。次にちょっかいを出してきたら、容赦しないわ」
そう言い放つと、詩織は手にしていた鞭を投げ捨てた。
彼女は手を叩き、振り返って篠崎家を後にした。背後から聞こえる罵声には、もう耳を傾けなかった。
詩織は自分の住まいに戻ると、心身ともに疲れ果てていた。昨夜のあの馬鹿げた出来事は、まるで心の奥に刺さった棘のように、彼女を苛立たせた。
服を着替える時、いつも身につけていた翡翠のお守りがないことに気づいた。
「どこでなくしたのかしら」
部屋中を探し回ったが見つからない。脳裏に昨夜の光景がよぎり、彼女ははっとした。
きっと、あのホテルの部屋に落としてきたのだ。
詩織は考える間もなく、上着を羽織って外へ飛び出した。
あれは父親が彼女に残してくれたもので、彼女にとって特別な意味を持つ。必ず取り戻さなければならない。
詩織はホテルに戻った。部屋のドアが開いているのを見て、駿介はすでにチェックアウトしたのだろうと思った。
再び部屋に足を踏み入れると、中央にある大きなベッドが目に入り、彼女の頬は熱くなった。
昨夜、二人が裸で絡み合い、情熱的にキスを交わした光景が鮮明に蘇る。
詩織は心の奥底から込み上げる熱を抑え、急いで部屋中で翡翠のお守りを探した。
しかし、部屋の隅々まで探したが、見つからない。
まさか――駿介が持って行ったのだろうか。
もし彼に、昨夜の女が自分だと知られたら、離婚の話に支障が出るかもしれない。
だから、絶対に彼に気づかれてはならない。
その時、ドアの外から落ち着いた足音が聞こえてきた。
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