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チャプター 2 身代わりの婚約者

部下たちの嘲笑は、長くは続かなかった。

「黙れ」 ――氷のように冷たい声が響く。京介は無表情のまま、射抜くような視線を投げかけた。「……夏川さんは、俺の命の恩人だ。彼女に謝罪しろ」

その一言で、場の空気は一瞬にして凍りついた。男たちの額に、じわりと嫌な汗が滲む。

「――ッ!」

誰からともなく、重々しい音を立てて片膝をつくと、残りの者たちも慌ててそれに倣った。

「夏川様、大変申し訳ございませんでした!我々の目が節穴でございました!」

主がなぜ身分を隠しているのか、彼らには窺い知れない。だが、この女性が主を救ったという事実は揺るがない。ならば彼女は、長谷川家に仕える者にとっても絶対的な恩人だ。

結衣はそんな彼らの動揺をよそに、ただ静かに佇んでいた。

「……別にいいわ。報酬はたしかに頂いたもの。 用が済んだなら、私は行くわね」

淡々と告げ、踵を返そうとした瞬間、彼女の前にすっと長い影が落ちた。見上げれば、広い肩とすらりとした長身を誇る京介が、行く手を塞いでいる。

「礼を言う。……先ほどの君は、とても勇敢だった」

京介が今日婚約するはずの相手――それは、陸田家に引き取られたばかりの長女、夏川結衣。

噂によれば、彼女は顔に酷い傷を負い、実家に戻っても虐げられ、 今も養父母の姓を名乗る「役立たずの臆病者」のはずだった。

だが、今目の前にいる彼女のどこに、そんな影があるというのか。

「夏川さん。……俺たちは、またすぐに会うことになるだろう」

その声は磁石のように心地よく響き、どこか言い知れぬ不思議さを帯びていた。

結衣は驚いた様子も見せず、鼻で笑った。「……察しがいいのね。

でも、二度と会わない方がお互いのためだと思うわよ」

彼女は腕を組み、去り際に一言だけ付け加えた。

「……親切心からの忠告。その腕時計、調べてみたほうがいいわよ」

含みを持たせた言い方で、結衣は今度こそ背を向けた。こんなところで道草を食っている暇はない。

これから「身代わりの婚約」という、最高に退屈な茶番が待っているのだから。

「……ボス、あの時計は先代様からの賜り物です。我々が事前に確認した際も、異常はありませんでしたが……」

部下の一人が訝しげに進言するが、京介の眉根は深く寄せられた。どういうわけか、彼女の言葉がただの戯言とは思えなかった。彼は懐からナイフを取り出すと、迷いなく高級時計の裏蓋をこじ開けた。

――カチャリ。

「……ッ、これは!」ケースの内側には、身に覚えのない微細な「白い粉末」が仕込まれていた。

京介の瞳から、温度が完全に消え去る。

「……病院へ回せ。すぐに成分を検査させろ」

黒服の男たちは息を呑んだ。プロである自分たちが念入りに調べ、異常なしと判断した逸品だ。

それを、あの女は一目で見抜いたというのか?

「各自、罰を受けろ。……これほどの失態、二度とは許さん」

全員が一斉に跪き、「はい!」と声を揃えた。

京介が我に返った時、結衣の姿はすでに雑踏の中へと消えていた。

まるで最初から幻だったかのように。

……

一時間後、結衣は婚約式の会場となるホテルに到着した。

ロビーでは、母である陸田恵子が、珍しく優しげな顔で彼女の手を取った。

「結衣、急に田舎に帰るなんて言うから、お母さん、あなたが拗ねているのかと思って。電話であんなにキツく言ったのは、心配していたからなのよ」

陸田家と長谷川家の嫡男・京介には、昔からの約束があった。

財界において、長谷川家は人脈、財力、地位、そのすべてにおいて頂点に君臨する絶対的な権力者だ。

だが、噂に聞く京介は、容姿は醜く、性格は歪みきった放蕩息子。彼の毒牙にかかり、心身を病んだ令嬢は数知れないという。

そんな男に、目に入れても痛くない次女・陸田奈緒を嫁がせるわけにはいかない。 だからこそ、彼らは「厄介払い」として、長年放置していた長女の結衣を呼び戻したのだ。

「そうよ、お姉ちゃん。お母様、あなたのことをずっと気に掛けていたの」

菜緒がおずおずと前に出て、潤んだ瞳で訴える。「だから……本来の婚約を、お姉ちゃんにお返しすることにしたのよ」

(……笑わせるわね。)結衣は心の中で冷笑し、その手を無造作に振り払った。

奈緒の一生と陸田家の面目が懸かっていなければ、彼らが自分の存在を思い出すことなど、一生なかっただろう。

もはや、この偽善者たちと家族ごっこをする気はさらさらない。結衣は近くを通った従業員を呼び止め、周囲に響く声で言い放った。「……ねえ、長谷川の『若様』に伝えて。少し早めに顔を出せないかしらって。 私、あまり体が丈夫じゃないから、早めに済ませたいの」

養父母が遺した「バイオチップ」を探り当てるには、長谷川家に入り込むのが一番手っ取り早い。

向こうから転がり込んできたこの縁談、利用しない手はない。

「ちょっと、結衣!なんて無作法な……!」

恵子が顔を真っ赤にするが、結衣は知らん顔だ。連絡を受けた従業員は、慌てて長谷川家の控室へと走った。

「……若様、夏川様が、早めにお目にかかりたいと申しております」

書斎のような控室に腰を下ろす男。鴉羽のような長い睫毛と、ハーフのような整った顔立ちをしていた。

「……すぐに行くと伝えろ」

「はい、かしこまりました」

メイドが退室し、部屋に静寂が戻ると、隣にいた赤毛の男――立花葵生が退屈そうにあくびを漏らした。

「おいおい京介、お前の醜花嫁さん、ずいぶん威勢がいいじゃないか」

葵生はどこか腑に落ちない表情で続ける。

「……お前、今朝助けてくれた女と勘違いしてるんじゃないか?

俺が聞いた話じゃ、結衣って女は気弱で、家でもいじめられてるような奴だってことだが」 京介の表情は微塵も動かない。「……さあな。

だが、あの女は俺に唯一『色』を見せてくれた存在だ。

地の果てまで追い詰めてでも、正体を突き止める」

「……まだ言ってるよ。出血多量で幻覚でも見たんだろ。

医者も言ってたぜ、お前の目は相変わらずだってな」

京介自身、あれは夢だったのではないかと疑う瞬間がある。現に、今彼の目に映る世界は、冷たい白と黒のままだ。

だが、病院の鑑定結果は残酷な真実を告げていた。あの腕時計に仕込まれていたのは、遅効性の神経毒。……あの女は、俺を二度も救ったのだ。

彼は静かに瞼を持ち上げ、薄い唇の端をわずかに上げた。

「そいつが彼女かどうかは、すぐに分かる」

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読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全287章

  1. 第1章チャプター 1 邂逅
  2. 第2章チャプター 2 身代わりの婚約者
  3. 第3章チャプター 3 彼女の色が見えた

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