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チャプター 3 中西湊、離婚しましょう

冷たい秋の雨が、一晩中降り続いていた。

東の空が白み始め、夜明けを告げていた。

小笠原琴音のぼやけた視界に、一足の革靴が止まった。

「一晩中跪いて、少しは頭が冷えたか?」

頭上から降ってきた中西湊の声には、一切の温度がなかった。「今すぐ非を認め、義姉さんのところへ行って土下座して謝れ。そうすれば立たせてやる」

琴音は体を強張らせたまま、ゆっくりと顔を上げた。

かつては華やかで美しかったその顔は、今は血の気が失せ、紙のように青白かった。

「私は、突き落としてなんていない」

琴音の喉から絞り出された声は、ひどく掠れていた。「湊、中西夢は自分でプールに飛び込んだのよ。あれは全部、彼女が仕組んだ自作自演の苦肉の策よ」

「黙れ!」

湊の瞳の奥に凄まじい怒りの嵐が巻き起こった。彼は猛然と身を乗り出し、琴音の顎を乱暴に鷲掴みにした。「義姉さんは今も集中治療室で生死の境を彷徨っているんだぞ。それなのに、お前はまだそんなでたらめを吐いて、彼女を陥れようというのか!」

顎を強く掴まれ、激痛が走ったが、琴音は眉一つ動かさなかった。

彼女は、三年間愛し続けた目の前の男の顔を食い入るように見つめていた。その瞳の奥の光が、少しずつ、確実に消えていった。

「あなたは本当に、私を信じてくれないのね」

「嘘ばかりつく毒婦の言葉など、誰が信じるか!」湊は冷酷に吐き捨てると、彼女を乱暴に突き飛ばした。

琴音は泥水の中に倒れ込んだ。

手の甲にある陶器の破片で切った傷口は、雨水にふやけて白くめくれ上がっていた。極限に達した痛みのせいで、もはや感覚すら麻痺していた。

絶望のどん底で、心は完全に死に絶えた。

琴音はふと笑った。

「いいわ……あなたが私を犯人だと決めつけるなら、もう何も言うことはないわ」

彼女は泥だらけの地面に手をつき、ふらつく足取りでゆっくりと立ち上がった。

「湊、離婚しましょう」

湊は鼻で笑った。「離婚だと? 琴音、 今度はどんな駆け引きのつもりだ?」

「どうとでも思えばいいわ」

琴音の口調は、恐ろしいほどに平静だった。「離婚協議書は後で郵送する。これから先、私と中西家は縁を切るわ!」

そう言い放つと、彼女は一切の未練を見せずに背を向けた。ボロボロになった体を引きずりながら、一歩ずつ階段を上っていった。

その女の意地っ張りな後ろ姿を見つめていると、湊の胸の奥に、理由のわからない苛立ちが込み上げてきた。

「琴音、この家を出て行くなら、二度と跪いて許しを乞いに戻ってくるなよ!」

琴音の足が微かに止まったが、決して振り返ることはなかった。

主寝室に戻った琴音は、ずぶ濡れの服を着替えることもせず、ただ黙々と荷物をまとめ始めた。

数枚の普段着と、身分証明書だけ。

湊が買い与えた高級ブランド品や宝石には、指一本触れなかった。

最後に、彼女は左手の薬指から結婚指輪を外し、ベッドサイドのテーブルにそっと置いた。

バタン。

ドアが閉まる音が、三年間抱き続けた愚かな幻想を完全に断ち切った。

琴音はスーツケースを引きずりながら、中西家の門を出た。

屋敷中の使用人たちが冷ややかな視線を送っていたが、誰一人として彼女を引き止めようとする者はいなかった。

雨は上がったが、吹き付ける風は骨の髄まで凍りつくほど冷たかった。

琴音は人気のない山道を一人歩いていた。足首の血はすでに固まっていたが、額は恐ろしいほどの熱を持っていた。

視界がどんどんぼやけ、目の前の景色が激しく回転し始めた。

「寒い……」

彼女は歯を食いしばり、スーツケースの持ち手を死に物狂いで握りしめた。一歩踏み出すたびに、刃の上を歩いているかのような激痛が足に走った。

ついに、両足から力が抜け落ちた。

鈍い音とともに、彼女はスーツケースもろとも道端に激しく倒れ込んだ。

意識が完全に深い闇へと沈み込もうとした、その瞬間。

キキッ!

一台の赤いスポーツカーが、猛烈な勢いで道端に急ブレーキをかけた。

ドアが開き、洗練されたスーツ姿の女性がハイヒールを鳴らして飛び出してきた。

「琴音ちゃん!」

工藤未来は、泥水の中に倒れ、手足が血まみれになっている琴音の姿を見て、一瞬で目を赤くした。

「琴音、しっかりして! 中西家のあのクズ共、一体あなたに何をしたのよ!」

彼女は琴音を抱き寄せ、その異常に熱い額に触れると、恐怖で声が裏返った。

「こんなに熱があるじゃない! 琴音ちゃん、怖がらないで。今すぐ病院へ連れて行くから!」

未来は慌てふためきながら琴音を助手席に押し込み、アクセルをベタ踏みにして市立中央病院へと車を走らせた。

***

再び目を開けると、視界に飛び込んできたのは眩しいほどの白だった。

鼻先には、強烈な消毒液の匂いが漂っていた。

すでに午後の遅い時間だった。夕日の名残がカーテンの隙間から病室に差し込んでいた。

「琴音ちゃん、やっと気がついたのね!」

ベッドの傍らに付き添っていた未来が勢いよく立ち上がり、大粒の涙をポロポロとこぼした。「自分がどれだけ危なかったか分かってるの!? 四十度の高熱に、膝も手の甲も全部感染して化膿してたのよ……中西湊のあのクソ野郎、絶対に八つ裂きにしてやるんだから!」

「未来……」

琴音はカラカラに乾いた喉から声を絞り出し、未来の袖口を弱々しく掴んだ。「行かないで」

「あいつにここまでボロボロにされたのに、まだ庇うつもり!?」未来は歯痒さに顔を歪めた。

「庇っているわけじゃないわ」

琴音の口元に、泣くよりも痛々しい笑みが浮かんだ。「私、もう彼に離婚を切り出したの」

未来は一瞬呆然としたが、すぐに彼女の手を強く握り返した。「よくやったわ! あんな節穴のクズ男、とっくの昔に捨ててやるべきだったのよ!」

病室に静寂が戻った。

未来は医者を呼びに出て行った。

琴音は一人ベッドに横たわり、窓の外で少しずつ暗くなっていく空を見つめていた。目尻から音もなく涙が滑り落ち、枕へと吸い込まれていった。

三年間。

千日以上もの日々。

自分が誰よりも従順で、物分かりよく振る舞っていれば、いつか湊のあの石のように冷たい心を温められると信じていた。

しかし今日になって、ようやく思い知らされた。

愛していないものは、どう足掻いても愛してはくれないのだと。

中西夢の前では、琴音という存在は、取るに足らない塵芥以下の価値しかなかった。

病室は完全に深い闇に包まれた。

琴音は目を閉じ、押し寄せる後悔と胸が張り裂けるような痛みに身を委ねた。

中西湊、この三年間は、犬にでも食わせたと思えばいい。

これからは、湊と自分は完全に赤の他人だ。二度と交わることはない。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全71章

  1. 第1章チャプター 1 この毒婦め
  2. 第2章チャプター 2 雨の中の罰
  3. 第3章チャプター 3 中西湊、離婚しましょう

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