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第3章 帰ってくるべきじゃなかった?

夜、土砂降りの雨が降っていた。

桜井詩織はベッドに横たわり、寝付けずにいた。この一年、長谷川颯真と過ごしてきた日々が、次々と脳裏に浮かんで消えない。

颯真と詩織の両家は代々親交があり、祖父同士も親しく、互いの家をよく訪ねていた。だから詩織は、ごく幼い頃から颯真と顔を合わせていた。

8歳の颯真は、年の割にひどく大人びていた。

いつも黒のオーダーメイドスーツに身を包み、幼いながらに笑うことはなく、何事にも興味を示さない、どこか冷めた子供だった。

5歳の詩織は、会うたびに彼のそばを離れず、一緒にいてとせがんだ。

それでも颯真は、持ち前の紳士的な気質からか、いつも彼女に付き合って、面倒を見てくれた。

一度、悪ふざけで湖に落ちて死にかけたことがある。冷たい水の中に飛び込んで詩織を助け出し、人工呼吸までしてくれたのが、颯真だった。

その日、朦朧とする意識の中で目を開けた詩織は、天使を見たと思った。

やがて両親が交通事故で亡くなると、詩織は桜井家のお荷物になった。

母方の祖父母に引き取られて田舎で暮らすようになってからは、この街に戻ることも、颯真に会うことも二度となかった。

そんな暮らしが変わったのは、一年前。伯父が夜を徹して、田舎で暮らす詩織の小さな木造の家を訪ねてきたのだ。

周りの人間は、詩織が颯真に嫁いだのを、田舎の貧しい暮らしに嫌気がさし、贅沢な暮らしに目がくらんだからだと思っていた。

だが詩織だけは知っている。一年前のあの夜、颯真との結婚話を聞かされた時の、胸の高鳴りを。

けれど、すべては束の間の甘い夢に過ぎないということも、詩織はよくわかっていた。

そして今、その夢から覚める時が来た。

窓の外では風雨が荒れ狂い、稲光が夜を裂き、雷鳴が轟いている。

布団にくるまりながら、詩織は次第に落ち着きを取り戻していった。

翌朝、けたたましい電話の呼び出し音で詩織は目を覚ました。

ぼんやりした頭で電話に出ると、聞こえてきたのは姑である長谷川芳美の、嫌悪感を隠そうともしない声だった。「もう何時だと思ってるの?まだ寝てるの?」

「長谷川家が、あんたみたいな怠け者を嫁にもらうなんてね」

そんな棘のある言葉を、詩織はもう一年も聞き続けていた。

いつも、彼女はただ黙って聞いていた。

彼女がただ大人しく、我慢強いからというわけではない。

義母の芳美ともめ事を起こして、夫である颯真を困らせたくなかったのだ。

巨大グループのトップとして多忙を極める彼を気遣い、家のことで余計な心労をかけたくなかった。

だが、今日はもう、我慢する気になれなかった。

電話の向こうで、芳美はまだまくし立てている。「一年前、よほどの事情であんた以外に候補がいなかったから許したけど、そうでなきゃ颯真との結婚なんて絶対に認めなかったわ。あんたじゃ、うちの息子には不釣り合いなのよ……」

「ええ、私では長谷川颯真に不釣り合いでしょうね。でも、結婚は私一人でしたものではありません」

詩織は深く息を吸い、相手の言葉を遮った。「私が気に入らないなら、息子さんに離婚を勧めて、彼にふさわしい人を探してやればいいでしょう」

「一年前、颯真が私と結婚したのは、差し迫った事情があったからでしょう?でも、その危機はもう去ったはずですが」

電話の向こうで、芳美は絶句した。

今、自分が何を聞かされたのか、信じられない思いだった。

ーーこれまで言いなりで、何を言われても黙って耐えていたあの詩織が、自分に向かってこんな口答えをするなんて!? 頭でも打ったのかしら?

「義母さん。朝早くからのお電話は、そのためですか?」

「お暇でしたら、息子さんに離婚を勧めてくだされば結構ですよ」

「私は二度寝しますので。では」

それだけ言うと、詩織は芳美が返事をする間もなく、一方的に通話を切った。

電話の向こうで無機質な音が響く中、芳美は怒りで目玉が飛び出しそうだった。

説教の途中で寝ると言いだすだけでも腹が立つのに、お義母さんとさえ呼ばず「篠原さん」ですって?

ーーあの小娘、よくもそんな口が利けたものね!

芳美は怒りにまかせて、息子の颯真に電話をかけた。「あんたの嫁、頭がおかしくなったんじゃないの!?」

電話がつながるなり、芳美はまくし立てた。「あの子を起こそうと電話しただけなのに、逆ギレされたあげく、早く離婚するようにあんたを説得しろだなんて!どうかしちゃったのよ、あの態度は!」

病院の廊下に立ち、颯真は窓の外、雨に洗われてひときわ鮮やかな緑の葉に目をやっていた。胸の奥に、わけのわからない苛立ちがこみ上げてくる。「詩織が……本当にそう言ったと?」

「ええ、そうよ!」

芳美は息を弾ませた。「颯真、この一年、あの子と別れろって私が何度言っても、あんたは何かと理由をつけて先延ばしにしてきたじゃない」

「あの子の方から離婚を言いだすなんて、絶好の機会じゃないの」

「あんたがどう思ってるかなんて知らないわ。さっさと離婚なさい!」

「あんたがあんな田舎娘を嫁にもらったせいで、上流社会でどれだけの人たちが陰で長谷川家のことを笑いものにしてるか、わかってるの?」

「あんたねえ……」

「母さん」

颯真は眉をひそめた。「昨夜は嵐だったから、詩織は雷の音でよく眠れなかったんだろう」

そう言いながら、颯真は腕にはめた高級腕時計に目を落とした。「まだ朝の7時だ。今日は特に用事もないだろう。わざわざ起こす必要はなかったんじゃないか?」

言いながら振り返った颯真の目に、病室のドアの前に立つ、患者衣姿の女性が映った。

颯真は表情を引き締めると、電話口に声を潜めて言った。「まだやることがある。また後で」

スマホをポケットにしまい、颯真は桜井美晴に歩み寄った。「どうしてベッドから出てるんだ?」

血の気の引いた顔でドア枠に寄りかかった美晴は、弱々しく微笑んだ。「おばさまが、詩織があなたと離婚したがってるって……話してるのが聞こえちゃった」

「あの子が離婚したいなんて言ってるの、私のせい……?」

そう言いながら、美晴は目に涙を溜めて颯真の顔を見上げた。「ねえ颯真、私……帰ってくるべきじゃなかったのかな?」

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全94章

  1. 第1章第1章 妊娠したの
  2. 第2章チャプター 2 ママが必ず守ってあげる
  3. 第3章第3章 帰ってくるべきじゃなかった?

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