メインコンテンツへスキップ

優衣が築山の影から静かに後ずさり、宴会場へ戻ろうとしたその時だった。 庭園の出口、つまり本館へと続くテラスのところまで来ると、彼女の視界の端で、啓佑と朋江が假山の反対側から出てくるのが見えた。 優衣は、咄嗟に太い廊柱の陰に身を隠した。 啓佑は宴会場に戻ろうとしているようだったが、朋江がその腕を掴んで引き留めた。 そして彼女はつま先立ちになり、大胆にも啓佑の唇に自分のそれを重ねた。挑発的で、見せつけるようなキスだった。 啓佑は一瞬ためらったようだったが、結局はそのキスに応じた。月明かりの下で、二人はしばらくの間、互いを求め合っていた。 優衣は固く拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、じわりと滲む痛みだけが、かろうじて彼女の理性を繋ぎとめていた。 この悍ましい光景から目をそらし、立ち去ろうとした瞬間。 低く、そして底冷えのするような男の声が、すぐ近くの暗がりから響いた。 「随分と見事な茶番劇だな」 優衣の身体が、氷のように強張った。 弾かれたように振り返ると、そこにいたのは、ウイスキーグラスを片手に、冷たい表情で二人を見つめる長身の男だった。 桜井春翔。 啓佑の叔父であり、巨大企業、桜井グループを実質的に支配する男。祖母の千代でさえ一目置かざるを得ない、絶対的な権力者。 春翔の鋭い視線が、キスをしていた二人から、柱の陰に隠れていた優衣へと移る。 その目は、まるで全てを見透かしているかのようだった。 いつからそこに?どこまで見ていた? 優衣の心臓が、一度大きく跳ねて、そして止まったかのように静かになった。彼女は依然としてそこに隠れたまま、出てきていない。 声に気づいた啓佑と朋江は、慌てて体を離した。春翔の姿を認めた瞬間、二人の顔から血の気が引いていく。 「お叔父上……」 啓佑の声は、情けなく震えていた。 春翔は甥を一瞥もせず、ただ優衣を深く見つめた。その眼差しには、探るような色と、侮蔑と、そしてほんの僅かな読み取れない複雑な感情が混じっていた。 彼は何も言わず踵を返すと、まるで何も見なかったかのように宴会場へと戻っていった。 啓佑は恐怖に顔を歪め、朋江の手を引いて別の小道から慌てて姿を消した。 一人残された優衣は、激しい動揺に襲われていた。 桜井春翔の目撃。それは、彼女が慎重に進めていた「静かに立ち去る」という計画を、根底から覆しかねない最大の不確定要素だった。 彼がこのことを千代に話せば、全てが台無しになる。 少なくとも、今はまだ駄目だ。 優衣は深く息を吸い、乱れた着物の襟元を整えると、早足で春翔の後を追った。 宴会場へと続く、人のいない廊下で、彼女は彼の背中に声をかけた。 「春翔叔父様どうか、お待ちください」 春翔は足を止め、ゆっくりと振り返った。その冷たい視線が、優衣を射抜く。 優衣は彼の前に進み出ると、深く深く頭を下げた。 「先ほどのことは……」 顔を上げた彼女の瞳には、涙が溢れんばかりに溜まっていた。完璧なタイミングで、弱々しさと必死さを演出する。 「お願いでございますどうか誰にも……特にお祖母様には、内密にお願いいたします」 声は嗚咽に震え、身体は小刻みに揺れていた。夫の裏切りを知りながらも、家の体面のために耐え忍ぶ哀れな妻。それが、彼女が演じるべき役柄だった。 春翔はそんな彼女を、値踏みするように見下ろした。 「理由は?」 氷のように冷たい声だった。 「私は……まだ啓佑さんを愛しておりますもう一度だけ、彼に機会を与えたいのですそれにもし、このことが公になれば、松岡家の名に傷が……」 古風で従順な日本の妻が口にしそうな、完璧な台詞だった。 春翔は数秒間黙って彼女を見つめていたが、やがてその口元に、嘲るような笑みが浮かんだ。 「『愛』のためかそれとも、松岡の財産のためか」 彼は彼女の言葉を、微塵も信じていなかった。全ては将来の離婚交渉を有利に進めるための芝居。より多くのものを手に入れるための計算高い演技だと見抜いていた。 優衣は反論しなかった。ただ、涙に濡れた瞳で彼を見つめ返す。その姿が、彼の確信をさらに強固なものにした。 「なるほどな」 春翔は冷たく言い放った。 「自ら火中の栗を拾う前に、自分が何をしているのかよく考えることだ」 それだけ言うと、彼は今度こそ本当に背を向けて、宴会場の喧騒の中へと消えていった。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

続きを読む

章一覧

全90章

  1. 第1章チャプター 1
  2. 第2章チャプター 2
  3. 第3章チャプター 3

新着