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第3章 色褪せた献身と新たな誓い
泉美がダイニングルームへ足を踏み入れると、すでに浩一は席に着いており、家政婦の木下和恵が朝食を並べているところだった。
ふたりの間には、重苦しい沈黙が横たわっている。木下は心配そうに泉美の顔色を窺った。
「泉美さん、顔色が優れませんね」木下が小声で気遣わしげに囁く。
「ゆうべは、あまりよく眠れなくて」
泉美は力なく微笑むのが精一杯だった。
浩一は新聞から目を離そうともせず、まるで泉美など最初から存在しないかのように振る舞っている。
その時、浩一のスマートフォンが着信を告げた。
画面を一瞥した彼の表情が、みるみるうちに柔らかくほどけていく。
『もしもし、春美か? ああ、おはよう。うん、大丈夫だよ』
受話器から漏れる声に向けられたその響きは、昨夜、泉美へ投げつけられたものとは別人のように甘く優しい。
泉美はぎゅっとフォークを握りしめた。目の前で、夫が別の女に愛情を注いでいる。吐き気のするような光景だが、胸の奥でどこか慣れてしまっている自分がいた。
『うん、わかった』浩一は相槌を打ちながら立ち上がる。『今日のランチ? ああ、いいよ。君の好きなイタリアンでいいかい? 僕が予約しておくよ』
浩一は泉美に視線ひとつ寄越さず、リビングの方へと歩き去り、そのまま通話を続けた。
取り残された泉美は、冷めかけた皿の上のスクランブルエッグをただ見つめていた。
木下がそっと歩み寄り、泉美の前に湯気の立つお茶を置く。
「……旦那様、最近は有馬様とよくお会いになっているようですね」
泉美は顔を上げ、木下の痛ましそうな瞳を見つめ返した。
「木下さん。もう、私の分の朝食は浩一さんの好みに合わせなくて結構ですから」
「え?」
木下が目を丸くする。これまで泉美は、浩一の好みに合わせて毎朝和食中心の献立を用意するよう頼んでいたのだ。
「これからは、パンとコーヒーだけで構いません」
静かに、だがはっきりと告げる。それは彼女にとって、小さくとも決して揺らぐことのない反逆の狼煙だった。
通話を終えた浩一がダイニングへ戻ってくる。
「今日の夕食は外で食べる。いらない」
事務的な口調でそれだけを言い捨てた。
「わかりました」
泉美は短く応じるにとどめた。以前の自分なら「誰とですか?」とすがりつくように問いかけ、嫌悪感を露わにされたことだろう。
浩一はそんな泉美の淡々とした態度にわずかな違和感を覚えたのか、小さく眉をひそめたが、それ以上は何も言わずに食事を終え、足早に出勤していった。
玄関のドアが閉まる音を確認すると、泉美はすぐさま自室へ戻り、ノートパソコンを開いた。
大学院から、出願が受理された旨のメールが届いていた。
安堵の息を吐くのも束の間、泉美はすぐに意識を次の段階へと切り替えた。まずは語学試験の突破だ。
本棚の最奥から、埃をかぶった参考書の束を引きずり出す。かつて夢を追っていた頃の、情熱の残骸だった。
その日を境に、泉美の日常は一変した。
浩一のいない日中は、食事と睡眠以外のすべての時間を勉強に注ぎ込んだ。
夜になり、浩一が帰宅する気配を察すると、泉美は勉強道具を隠し、以前と変わらない「従順で何も知らない妻」の仮面を被った。夫は、目の前の妻が少しずつ変貌を遂げていることに露ほども気づいていない。
綱渡りのような日々に神経はすり減っていく一方だったが、胸に灯った明確な光があるからこそ、彼女はこの日々に耐えられていた。
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