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第2章 過去の傷と未来への切符

「汚らわしい」

泉美の言葉に、浩一は信じられないと言わんばかりの顔で立ち尽くしていた。

「何を言っているんだ、お前は」

泉美は答えず、ただ冷ややかに見つめ返す。その瞳には、もはや昨日まで彼に向けていたような慕情の色はなかった。

プライドを傷つけられた浩一は舌打ちをすると、「勝手にしろ」と吐き捨ててゲストルームを出て行った。乱暴にドアが閉ざされる。

一人きりになった部屋で、泉美は深く息を吐いた。ベッドから降りて窓際に立つと、震える手でスマートフォンを握りしめる。

ロックを解除し、写真フォルダを開いた。そこには、幸せそうに微笑む結婚当初のふたりが並んでいる。

一枚の写真を指先でなぞった。退院したばかりの泉美を、浩一が優しく抱きかかえている写真だった。

――五年前、雨の日の交差点。泉美は飛び出してきた車から浩一を突き飛ばし、代わりに自分がはねられた。

病室で目覚めた泉美に、医師は「ダンサーとしての復帰は絶望的です」と告げた。夢が絶たれた瞬間だった。

絶望に沈む泉美の前に、浩一が現れた。

「俺が一生、君の面倒を見る。結婚しよう」

その瞳は、罪悪感と責任感に揺れていた。

それが愛ではないと知りながらも、彼の申し出を受け入れた。彼を愛していたから。いつかこの責任が、愛に変わる日が来ると信じていたから。

泉美は写真を削除した。過去の幻想に浸るのは、もう終わりだ。

SNSアプリを開くと、友人経由で表示された見たくもない投稿が目に入った。有馬春美のアカウントだ。

そこには、昨夜撮影されたと思われる動画が添付されていた。再生ボタンを押す指がわずかにためらう。

意を決して再生すると、高級バーのカウンターで親しげに肩を寄せ合う浩一と春美の姿が映し出された。

「浩一さん、あーん」

春美が甘えた声を出し、カクテルに添えられたチェリーを浩一の口元へ運ぶ。浩一は泉美には決して見せないような、蕩けるほど甘い笑顔でそれを受け入れていた。

動画のキャプションには「大切な人と大切な時間」と添えられている。撮影日時は昨夜の九時。泉美がディナーを用意して帰りを待っていた、あの時間だった。

泉美はスマートフォンの画面を消し、ベッドの上へと投げ出した。怒りよりも先に、底知れない虚しさが胸を満たす。

この五年間、自分は滑稽な道化だったのだ。夫の愛を信じ、彼の「責任」という名の檻の中で飼い殺しにされてきた。

(このままじゃいけない)

この家から、岩根浩一という男から逃げ出さなければ。

泉美はPCを立ち上げ、ブックマークしていたページを開いた。海外の有名大学院のウェブサイトだ。

ダンスを諦めて以来、彼女が唯一独学で続けてきたもの――芸術経営学の勉強。いつか別の形で舞台芸術に関わりたい。その夢だけが、心の支えだった。

画面には修士課程の募集要項が表示されている。出願の締め切りは一ヶ月後。

必要なのは推薦状、研究計画書、そして語学力の証明。

泉美は唇をきつく結んだ。浩一に知られることなく、すべてを準備しなければならない。

まず語学試験の申し込みサイトを開き、最短で受験できる日程を探す。幸いにも二週間後に空席があった。泉美は迷わず申し込みボタンをクリックする。

続けてオンラインの願書作成ページを開いた。名前、経歴、学歴……。一つ一つ、慎重に情報を入力していく。

それは過去の自分との決別であり、未来の自分への誓いの儀式でもあった。

入力の途中、結婚を機に浩一が設立した財団のことが頭をよぎる。節税対策と世間体のためだったが、泉美は理事の一人として名を連ねていた。その資金を学費に……いや、彼の金に頼るのはもうやめだ。泉美は静かに首を振った。

個人口座の残高を確認する。独身時代に貯めた、わずかな貯金。だが、それは紛れもなく彼女自身のものだった。

出願手数料の支払いを終えると、画面に「Your application has been submitted」の文字が表示された。出願が完了したのだ。

未来への切符を手にした瞬間だった。

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読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全50章

  1. 第1章第1章 婚約記念日の鎮魂歌
  2. 第2章第2章 過去の傷と未来への切符
  3. 第3章第3章 色褪せた献身と新たな誓い

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