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第2章 嵐の前の帰還

区役所の前の歩道に立ち、寺岡成彦は夜風に吹かれながら、手の中の数千円とメモ用紙を長い指でゆっくりと撫でていた。

背後の街灯の影から河崎隼人が音もなく姿を現し、深々と頭を下げた。だが、その顔には隠しきれない動揺が浮かんでいた。

全市の女性が憧れる夢の恋人でありながら、女性を極度に嫌悪し、三メートル以内に近づかれただけで生理的嫌悪感を示す主人が、あろうことか見知らぬ女と電撃結婚したのだ。しかも、あの女は主人の腕を直接掴んでいた。たかが手首とはいえ、河崎にとっては天変地異に等しい衝撃だった。

「若旦那様……どうしてもお聞きしたいのですが、なぜあのような素性の知れない女と結婚など……?」

好奇心と懸念に耐えきれず、河崎は恐る恐る尋ねた。

成彦は何も説明せず、たった今発行されたばかりの婚姻届受理証明書を河崎へと手渡した。

「これを本家の爺さんに届けておけ」

「しかし……いくら大旦那様が結婚を急かしているとはいえ、あんな女を選ぶ必要はないでしょう? それに、早坂麻穂様もまもなく帰国されます。若旦那様なら……」

「口を慎め」

成彦の鋭い一瞥が、河崎の言葉を冷たく遮った。

「あいつが一番都合がいいんだ」

成彦はロールス・ロイスの後部座席に乗り込み、目を閉じた。

(俺の身体が拒絶しない唯一の女。そして、俺に微塵も愛を持たない女。本家を黙らせるための盾として利用するには、うってつけの駒だ)

一方その頃、純佳は区役所近くの地下鉄の駅へと早足で向かい、改札にICカードをタッチしてホームへと駆け降りていた。

深夜の車内は乗客もまばらで、静まり返っている。純佳はドア横の窓ガラスに背を預け、暗闇に映る自身の冷ややかな横顔を見つめた。

バッグの中に手を入れると、指先にひんやりとした金属の感触が触れた。そこから一本の細長い銀針を取り出し、指の間で器用にくるくると回し始める。

指の腹にできた薄いタコが、銀針の滑らかな表面をなぞる。亡き母であり、伝説的な漢方の名医であった染谷芽江から受け継いだ針だ。

十年前、不審な航空機事故で母が命を落とした日の記憶が蘇り、純佳の心臓がぎゅっと鷲掴みにされたように痛んだ。しかし次の瞬間には、その瞳に一切の迷いを振り払った冷徹な光が宿っていた。

やがて電車が目的の駅に到着し、純佳はホームへと降り立った。改札を抜け、高級住宅街へと続く見慣れた坂道を、一定の歩調で上っていく。

夜闇の中に、滝本家の豪奢な邸宅が姿を現した。

純佳の瞳に、氷のような憎悪が閃いた。

この家の主である滝本宗二は、純佳の正真正銘の実の父親である。だが彼は、金のためなら実の娘さえ平気で売り飛ばす、冷血で利己的な男だった。十年前、純佳の母が不審死を遂げた直後、宗二は手のひらを返したように本性を現し、外から愛人だった高坂真理枝を後妻として引き入れたのだ。

さらに恐ろしいことに、真理枝が連れてきた宗二の実の娘――純佳の義姉にあたる滝本桃紗は、純佳よりも年上だった。つまり、宗二は母が生きている頃からずっと裏切っていたのだ。

真理枝は底意地の悪い女で、純佳が不幸になることこそが自分の喜びだと信じて疑わず、「純佳の母親が私たちの人生を奪った」と逆恨みしていた。そして姉の桃紗は、表向きは清楚で可憐な優等生を演じながら、裏では息を吐くように純佳を貶め、周囲に純佳を嫌わせるよう仕向ける生粋の性悪女だった。今回、純佳をあの変態の黒川社長に嫁がせるという悪魔のような計画も、他ならぬ桃紗の入れ知恵である。

純佳は冷たい空気を深く吸い込み、門扉のテンキーに暗証番号を打ち込んだ。電子音が鳴り、重い鉄門が鈍い金属音を立ててゆっくりと開いた。

手入れの行き届いた庭園を横切り、玄関へと近づくと、閉ざされた扉の隙間から継母である高坂真理枝の甲高いヒステリックな声が漏れ聞こえてきた。

「あの小娘、絶対に逃げたのよ! ねえ宗二、もし黒川社長の機嫌を損ねてご破算にでもなったら、うちの資金繰りは完全にショートしちゃうわよ!」

純佳はわずかに歩みを緩め、冷たい笑みを浮かべた。やはり連中が気にしているのは会社の金だけで、売られる自分の人生などどうでもいいのだ。

冷え切った真鍮のドアノブに手をかけ、指の関節が白くなるほど強く握りしめる。

そして、力任せに扉を押し開けた。重厚な木製の扉が内側の壁に激突し、家全体を揺らすような轟音が、リビングの口論を一瞬で断ち切った。

室内にいた三人が一斉に振り返り、玄関に無表情で佇む純佳を見て息をのんだ。

滝本宗二は一秒ほど呆然と固まった後、すぐさま娘を案じる優しい父親の仮面を貼り付け、大股で純佳のもとへと歩み寄ってきた。

「純佳、いったいどこへ行っていたんだ! お父さんがどれだけ心配したと思っているんだ!」

宗二は大げさに眉を下げ、純佳の腕を掴もうと手を伸ばした。

純佳は、実の父親の顔を精巧なシリコンマスクで模倣しているこの偽物の男を氷のような目で見据え、半歩後ろに下がってその汚らわしい手を冷ややかにかわした。

宗二の手が空中で不自然に止まり、その顔から慈愛の笑みが消え、どす黒い怒りが一瞬だけ覗いた。

すると、ソファに座っていた義姉の滝本桃紗がすぐに立ち上がり、目元をうっすらと赤く染めながら、いかにもか弱そうな足取りで純佳の前へと駆け寄ってきた。