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夕食のテーブルは、異様な静けさに包まれていた。伊藤暁は甲斐甲斐しく梓の皿に料理を取り分けながら、完璧な夫を演じている。 「明日の隼人の親子イベント、楽しみだな、久しぶりに家族三人で出かけられる」 彼の言葉に、家庭教師として同席している野口美優が、うっとりとした眼差しで相槌を打つ。 「隼人くん、ずっと楽しみにしていましたものね」 当の隼人は、母親である梓とはほとんど目を合わせようとしない。それどころか、美優にばかり懐き、彼女に食事を食べさせてほしいとねだっている。 梓はほとんど食欲がなかったが、顔には上品な微笑みを浮かべ、この茶番を黙って見つめていた。胃が重く、まるで鉛を飲み込んだようだ。 暁が、さも当然のように言った。 「そうだ、美優先生も明日は一緒に行こう、隼人の世話をしてもらえると助かる」 愛人を公の場に連れ出し、家族の一員であるかのように振る舞うつもりなのだ。梓の心の中で、冷たい笑いが込み上げた。 彼女は反対しなかった。それどころか、穏やかに微笑んで頷いた。 「ええ、その方が隼人も喜ぶでしょうね」 その従順な態度に、暁と美優は少し驚いたようだったが、すぐに彼女への侮りを深めた顔になった。どうせ何もできはしない、と。 夕食後、寝室に戻ると暁が後を追ってきた。彼は梓を抱き寄せようとしたが、梓は「少し疲れているの」と、彼の胸をそっと押し返した。暁の目に一瞬、不快な色が浮かんだが、彼はそれを巧みに隠し、いつもの優しい夫の顔で引き下がった。 翌日、親子イベントが開催される高級リゾートは、多くの着飾った家族連れで賑わっていた。伊藤家の車が到着すると、周囲の視線が一斉に集まる。 暁と梓は、あつらえたような〝夫婦ルック〟に身を包み、腕を組んで車を降りた。他の保護者たちからの羨望と追従の言葉を、暁は満足げに受け止めている。 その後ろを、野口美優が一見すると控えめだが、計算され尽くした白いワンピース姿でついてくる。あくまでも、献身的な家庭教師という役柄で。 最初のプログラムは「親子二人三脚」だった。親と子が足を結び、共にゴールを目指す。 伊藤家の番が来た。梓は微笑みながら隼人に手を差し伸べた。しかし、隼人はその手を、まるで汚いものでも見るかのように振り払った。 そして、全ての保護者が見守る前で、彼は甲高い声で叫んだ。 「ママとは嫌だ!美優先生と走る!」 その場が、しんと静まり返った。全ての視線が、差し伸べた手を宙に浮かせたまま固まっている梓の顔に突き刺さる。 美優はすぐに、困惑と罪悪感をない交ぜにした表情を作り、助けを求めるように暁を見上げた。完璧な被害者の演技だった。 暁は眉をひそめ、隼人を低く叱ったが、その声には何の力もなかった。まるで、この状況すら楽しんでいるかのようだ。 梓は、息子の決然とした目を見た。心臓を鷲掴みにされるような痛み。これは、ただの子供の我儘ではない。公衆の面前での、母親に対する死刑宣告だ。 彼女は深く息を吸い込み、ゆっくりと手を下ろした。そして、隼人に向かって、泣くよりも辛い微笑みを浮かべてみせた。 「そう、隼人が楽しいのが一番よ」 その健気なまでの譲歩は、周囲の囁き声に火をつけた。同情、好奇、そして嘲笑。 結局、隼人は望み通り美優と足を結び、コースへと駆け出していった。二人の弾けるような笑い声が、梓の耳に届く。 暁が梓の隣に立ち、彼女の手を握った。 「気にするな、子供は気まぐれだから」 その声には、謝罪の響きは微塵もなかった。ただ、事を荒立てるなという、冷たい命令だけが込められていた。 梓は、コースの上で本当の家族のように笑い合う二人と、隣に立つこの偽善的な男を見つめた。息子への最後の期待も、この瞬間、完全に消え失せた。 この家には、もう何もない。彼女が守るべきものも、愛すべきものも。 中間の休憩時間、梓は化粧室へ行くと嘘をつき、一人で誰もいないラウンジへと向かった。 スマートフォンを取り出し、暗号化されたチャットを開く。 『理事官、計画を加速させる、野口美優の完全な経歴資料を要求する、可及的速やかに』 メッセージを送信すると、指先が微かに震えていることに気づいた。もはや、受動的に時を待つ段階は終わった。これからは、こちらから仕掛ける番だ。 イベント会場に戻ると、美優が他の母親たちに囲まれていた。誰もが、彼女がどれほど隼人を良く育てているかと褒めそやしている。まるで彼女が隼人の母親であったかのようだった。 美優は、その賞賛を浴びながら、勝利者の笑みを浮かべて梓を一瞥した。 梓は彼女を無視し、ドリンクコーナーで静かに水を飲んだ。その瞳は、先ほどまでの悲しみが嘘のように、硬質で、氷のように冷たい光を宿していた。

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章一覧

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  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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