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リゾートからの帰り道、車内は重苦しい沈黙に支配されていた。後部座席では、遊び疲れた隼人が野口美優の肩に寄りかかって眠っている。 伊藤暁はバックミラー越しに、助手席の梓の表情を窺っていた。彼女は驚くほど穏やかで、その静けさが逆に暁を苛立たせた。 梓は彼の視線を無視し、ただ窓の外を流れる景色を眺めていた。まるで、この車内にいる誰とも関係のない、孤独な乗客のように。 突然、彼女は口を開いた。彼女の声は水面のように平穏だった。 「明日、外面でデートがあるので、昼間はお家にいないかもしれない。」 暁は一瞬動きを止めたが、すぐに優しい夫の仮面をかぶり直した。 「もちろん、時々は外出してリフレッシュする必要もあります。」 翌日、梓は一人で母親が眠る霊園を訪れた。空はどんよりと曇り、冷たい小雨が降り注いでいる。 墓石の前に膝をつき、濡れた母の写真を柔らかい布で拭う。そして、誰に聞かせるともなく、静かに語りかけた。 「お母さん、私が間違っていた、男を信じるべきじゃなかった、自分自身を、捨てるべきじゃなかった、でも、もう終わりにする、彼らが私に与えた苦しみを、何倍にもして返してあげる」 誓いの言葉と共に、彼女は左手の薬指から結婚指輪をゆっくりと引き抜いた。そして、それを墓石の前に、そっと置いた。五年間、彼女を縛り続けた金の枷。 その時、背後から声がした。 「梓、そこで何をしているんだ?」 振り返ると、傘を差した暁が、複雑な表情で立っていた。彼の視線は、梓と、墓石の前に置かれた指輪の間を往復している。 彼はゆっくりと歩み寄り、指輪を拾い上げた。その声は、傷ついた男のそれだった。 「どうして外すんだ?昨日の隼人のことか?すまない、俺の躾が悪かった」 彼は、出会った頃の思い出から、愛を誓った日のことまで、とうとうと語り始めた。彼らの愛は決して変わらない、と。 そして、雨に濡れるのも構わず、その場に片膝をついた。 「許してくれ、梓」 真摯な眼差しで、彼は梓の左手を取り、再びその薬指に指輪を嵌めた。雨水が彼の髪を濡らし、肩に染みを作っている。その姿は、悲劇の主人公のように見えなくもなかった。 昨日までの梓なら、この光景に心を動かされたかもしれない。しかし、今の彼女の胸に湧き上がるのは、どうしようもない吐き気だけだった。彼の誓いの言葉の一つ一つが、五年という歳月の嘘を浮き彫りにする。 梓は抵抗しなかった。彼女はただ黙って彼が指輪をしまうのを見守っていた。彼女の顔には、何の感情も表れていなかった。 「雨が強くなってきたわ、帰りましょう」 彼女の冷淡な反応に、暁の表情が微かにこわばった。 梓は心の中で計算していた。彼女がここに来ることを、どうして彼が知っていたのか。答えは一つしかない。彼女は監視されている。 この男は、梓が想像していた以上に執念深く、支配的だ。伊藤家という名の、巨大な鳥籠。 ふと視線を上げると、少し離れた場所に、いつの間にか執事がもう一本の傘を差して控えていた。まるで、ずっとそこにいたかのように。 霊園の入り口に停められた黒塗りのセダン。スモークガラスで中は見えないが、人の気配がする。 メイドも、執事も、運転手も、全てが彼の目であり耳なのだ。 理事官の助けが来るまで、私は演じ続けなければならない。愛に目が眩み、夫なしでは生きていけない、愚かな妻を。 そう決意すると、梓は自ら暁の腕に自分の腕を絡めた。そして、彼の体にそっと寄り添い、庇護を求める弱い女の仕草をしてみせた。 その従順な態度に、暁の表情がみるみるうちに和らいでいく。彼は再び状況を支配できたと確信し、得意げな笑みを浮かべた。 彼は梓の肩を抱き寄せ、傲慢さと優しさが入り混じった声で囁いた。 「分かっていたさ、君は、俺なしではいられない」 彼の腕の中で、梓は俯いた。その長い睫毛の影になった瞳に、氷のような殺意が閃いたのを、暁は知る由もなかった。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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