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第3章 名医のただ一人の弟子

彩乃は洋服店を見つけると、ポケットに残っていたわずかな小銭で安い着替えを買い、ついでに店員に頼んで携帯を充電させてもらった。汚れた服を脱ぎ捨てると、気分まで驚くほどすっきりした。

店を出たばかりのところで、一本の電話がかかってきた。

見慣れた番号を目にした瞬間、彩乃の表情はわずかに和らぐ。「もしもし」

「彩乃さん!君か?」電話の向こうから聞こえてきた男の声は、抑えきれない震えを帯びていた。 「俺は有馬だ。本当は出所に合わせて迎えに来るつもりだったんだが、間に合わなかった。悪かった」

有馬彰良。

海城市でも指折りの名家――有馬グループの当主。かつて刑務所で、彩乃が死の淵から救い出した男だった。

「気にしないで」彩乃は淡々と答えた。

「彩乃さん、祖父がもう危ないんだ」 彰良は声を落とした。「世界中の名医が危篤だと診断していて、今夜が峠だと言っている。 突然こんなお願いをして申し訳ないが……この世で祖父を救える人がいるとしたら、それは君しかいない」

彩乃の唇に、冷ややかな笑みが浮かんだ。

藤田家は彼女を塵芥のように扱い、恒一は彼女を殺人犯だと決めつけた。だが、その一方で、この世の権力者たちは、彼女の力を必要としていた。

「住所を送って」

***

翌日――グランヒルズ、最高級ヴィラ。

彩乃が廊下へ足を踏み入れた途端、気品ある婦人が数人のボディガードを従え、行く手を塞いだ。

有馬夫人は彩乃を頭の先から足元までじろりと眺め、最後に、そのくたびれたキャンバススニーカーへ視線を留めた。

「彰良。この子が、あなたの言っていた名医なの?」 有馬夫人は怒りのあまり失笑すると、彩乃を指差しながら息子を叱りつけた。「あなた、刑務所なんかに長くいたせいで、頭までおかしくなってしまったの? 二十歳そこそこの娘を連れてきて、おじい様を診てもらうつもり?その貧乏くさい格好を見てごらんなさい。メスに触れたことすらないんじゃないの?」

「母さん、失礼だよ」彰良は彩乃の前に立ちはだかると、母へ冷たい視線を向けた。 「彩乃さんは磯貝先生が最後に取った直弟子なんだ。その腕前は、この目で見ている」

「磯貝志帆ですって?」有馬夫人は鼻で笑った。 「七年も消息不明の『鬼の手』でしょう?本物かどうかも分からないじゃない。彰良、おじい様は今にも心停止しかけているのよ。中では世界屈指の専門医たちが必死に治療しているの。それなのに、前科者なんかを中へ入れて、有馬家を潰すつもり?」

彩乃は表情ひとつ変えなかった。懐から古びた白磁の小瓶を取り出すと、指先で軽く弾く。

「これは『延命丹』。磯貝先生が自ら調合した薬だ」 鋭い視線が、有馬夫人を真っ直ぐ射抜く。「あと三秒でも私を止めるなら、おじい様の心電図は一直線になる。 その時、有馬家の命運を自ら断つことになるのは、あなたよ」

「あなた……」有馬夫人は彩乃の放つ圧倒的な気迫に気圧され、思わず一歩後ずさった。

ピーーーーッ!!

病室から、耳をつんざくような警報音が鳴り響く。

「まずい!患者さんが自発呼吸を停止!除細動器を!」

彩乃はもはや何も言わず、有馬夫人の脇をすり抜け、そのまま病室へ踏み込んだ。

「君は誰だ?外へ出てくれ!」主治医が汗だくのまま怒鳴る。

「彰良さん、ここはお願い」彩乃は振り返ることなく、一直線に手術台へ向かった。

彰良は無言で頷くと、ボディガードに命じ、異議を唱える医師たちをすべて病室の外へ出させた。

手術灯の下へ立った瞬間、彩乃の纏う空気が一変する。

マスクを着け、メスを握る。その瞬間、彼女の瞳から一切の迷いが消えた。

「切開」

静まり返った手術室に、感情を感じさせない凛とした声が響く。

胸腔が開かれる。極限まで衰弱し、幾重もの手術痕に覆われた心臓が姿を現した。

それはすでに鼓動を止め、生命の気配すら失っていた。

「この心臓は……もう限界です。再縫合にも耐えられない状態です」 助手の声は震えていた。「藤田さん……これは、もう……」

彩乃は静かに言い切った。「私がいる限り、この人はまだ死なせない」

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全124章

  1. 第1章第1章 出所
  2. 第2章第2章 こんな家族、いらない
  3. 第3章第3章 名医のただ一人の弟子

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