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第2章 こんな家族、いらない
ランボルギーニが藤田家の別荘の門前で急停止し、ドアが勢いよく開いた。
彩乃はまだ体勢を立て直す間もなく、背中を強く突き飛ばされた。
「降りろ。俺の車を汚すな」恒一の声は、氷のように冷たかった。
彩乃は受け身も取れないまま、地面へと倒れ込んだ。
昨夜の雨で、別荘の門前のくぼみには濁った泥水が溜まっていた。
古びた服はたちまち泥にまみれ、泥水が青白い頬にまで跳ねた。
彩乃はみっともなく地面に手をつき、立ち上がろうとした。そのとき、頭上からくすくすと笑う声が降ってきた。
「なんだ。出所したばかりだっていうのに、そんなに慌てて大礼を尽くす気か?」
彩乃が顔を上げると、長兄の藤田拓海が階段の上に立ち、嫌悪に満ちた眼差しで彼女を見下ろしていた。
「お姉ちゃん!」
純白のドレスをまとった人影が、優雅な足取りで近づいてくる。
詩織は高価なオーダーメイドのウェディングドレスを身にまとい、幾重にも重なるレースのスカートが陽光を浴びて神々しいほどの輝きを放っていた。
彼女は彩乃を助け起こそうと手を伸ばしたが、指先が泥に触れそうになった瞬間、嫌悪感を隠しきれず手を引っ込め、目を潤ませた。
「お姉ちゃん、どうしてこんな姿に……? 恒一さん、どうしてお姉ちゃんを突き飛ばしたの?出所したばかりで、まだ体だって弱っているのに……」
恒一は車を降りると、当然のように詩織の腰を抱き寄せた。 「詩織、お前は本当に優しいな。彩乃みたいな性根の腐った人間には、泥の中がお似合いだ」
彩乃は自嘲気味に頬の泥を拭い、ゆっくりと立ち上がる。
「詩織、芝居はもう十分でしょう」彩乃の瞳は冷え切っていた。声はかすれていたが、不思議なほど静かだった。「この五年間、藤田家の誰一人として私に会いには来なかった。それなのに今日になって、こんな大勢で迎えに来たのは、また私を辱めるためじゃないの?」
「お姉ちゃん、どうしてそんなふうに思うの?」 詩織は悔しそうに唇を噛み、背後に据えられた大きな三段ケーキを指さした。「今日は私の婚約式でもあるけど、お姉ちゃんの……」
言い終える前に、拓海が苛立たしげに遮る。「こいつに何を話す必要がある!詩織、こんな縁起の悪い奴がお前の祝いの席にいたら興が削がれる。 さっさと式を終わらせて、ケーキを切ったらこいつを追い出せ。まずは体でも洗わせろ。ここにいるだけで目障りだ」
詩織は優雅な所作で赤ワインをグラスに注ぎ、両手で彩乃の前へ差し出した。無邪気な笑みを浮かべながら言う。「お姉ちゃん、一杯どう?私の幸せを祝って。それから、お姉ちゃんの……新しい人生の始まりにも」
彩乃はそのグラスを見つめた瞬間、胃の奥がひっくり返るような吐き気を覚えた。
――新しい人生の始まり?
五年前の今日、彼女は刑務所で、死んだほうがましだと思えるほどの暴行を受けていた。
五年後の今日、彼らはその彼女に、仇の婚約を祝う酒を飲ませようとしている。
「詩織、その酒は自分でゆっくり味わいなさい」
彩乃の瞳に鋭い光が宿る。
グラスが鼻先に触れようとしたその瞬間、彼女はそれを奪い取ると、その勢いのまま詩織の丹念に化粧を施した顔へ叩きつけた。
赤ワインが詩織の髪を濡らし、頬を伝って流れ落ちる。完璧だった化粧は無残に崩れ、高価なウェディングドレスもあっという間に赤く染まった。
「彩乃!死にたいのか!」拓海が怒鳴り声を上げ、平手打ちを食らわせようと飛びかかってくる。
彩乃は素早く身をかわし、刃のように冷たい眼差しを向けた。 「死にたいですって?五年前、詩織が車を暴走させて香弥子ちゃんを撥ねたとき、私に身代わりになるよう頼み込んだのは誰よ。あなたたちは藤田家の名誉を守るために共謀し、私を刑務所へ送り込んだ。そのとき、私を死に追いやっているとは、これっぽっちも思わなかったの!?」
「黙れ!」恒一は顔を青ざめさせると、彩乃の首を掴み、そのまま冷たい壁へ叩きつけた。「証拠はすべて揃っている。それでもまだ詩織に濡れ衣を着せるつもりか? 彩乃、お前みたいな人間は、牢屋の中で朽ち果てるべきだったんだ!」
首を絞められ、彩乃は息も絶え絶えになりながらも、なお恒一を真っ直ぐ見据え、一語一語噛み締めるように言った。「恒一……目を覚まして。 香弥子ちゃんはまだ生きている。私なら、彼女を目覚めさせられる」
空気が凍りついたように静まり返る。
次の瞬間、耳障りな嘲笑が響いた。
「お前が助けるだと?」拓海は、心底おかしな冗談でも聞いたかのように鼻で笑う。「彩乃、刑務所で頭でもおかしくなったのか? 海城市最高の専門医ですら手の施しようがないっていうのに、前科者のお前が何を偉そうに言ってる!」
恒一の瞳に浮かぶ嫌悪はさらに色濃くなった。まるで汚物でも放り捨てるように、彼は彩乃を突き飛ばす。「藤田家に居座るためなら、そんな見え透いた嘘までつくのか。 吐き気がする」
彩乃は地面へ倒れ込み、激しく咳き込んだ。
彼女は目の前にいる、血の繋がった家族と、かつて骨の髄まで愛した男を静かに見つめる。
その瞬間、胸に残っていた最後の希望は、完全に消え去った。
彩乃はゆっくりと立ち上がると、背筋をまっすぐ伸ばし、淡々と言い放つ。「……もういい。そこまで言うなら、それでいい。 今日この時をもって、私――藤田彩乃は、藤田家との一切の縁を断ち切る」
そう言い残すと、彼女は背を向け、別荘の門へ向かって一歩、また一歩と歩き出した。
「彩乃!その門を出たら最後、二度と俺たちを頼れると思うな!」 拓海の怒号が背後から響く。
次兄の藤田俊介は、黒く擦り切れたバックパックを彩乃の足元へ乱暴に投げ捨てた。「自分のゴミを持って、とっとと失せろ!」
三兄の藤田竜也も、冷え切った眼差しでただ一言だけ告げる。「失せろ」
彩乃は最後まで振り返らなかった。この家に、もう一秒たりとも留まるつもりはない。
そして――彼らが自分に負わせたすべての借りは、いつか彼ら自身が跪き、許しを乞うその日まで、必ず返してもらう。
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