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第3章 区役所の誓約と傲慢の代償
港区役所の正面玄関前で、マイバッハが静かに停車した。
運転席から降りた青柳が後部座席のドアを開けると、譲貴が先に降り、結紗へ手を差し伸べた。
結紗はその手を取らず、自らの足でしっかりとアスファルトを踏みしめた。
「松沢さん、本当に後悔しない?」
「後悔するのは、君を手放したあの愚か者だけだ」
譲貴の口元に冷笑が浮かんだ。
庁舎内に入ると、事前に連絡を受けていた区役所の幹部職員が直々に二人を出迎え、人目を避けたVIP特別室へと案内した。
テーブルの上には、すでに必要事項が記入された婚姻届が用意されている。
結紗は万年筆を手に取り、配偶者欄に迷いなく署名した。
『黒川結紗』
その横に譲貴が流麗な筆致で自らの名を連ね、松沢家の本家印を力強く捺印する。
『松沢譲貴』
職員が恭しく書類を受け取り、端末を操作すること数分。
発行されたばかりの新しい戸籍謄本が、両手で丁重に差し出された。
「松沢様、奥様。手続きはすべて完了いたしました。おめでとうございます」
「奥様」という響きに、結紗の指先が一瞬だけ微かに強張った。
譲貴は満足げに謄本を受け取ると、自然な動作で結紗の肩を抱き寄せた。
「行くぞ、我が妻よ。君の私物を回収しに」
午前11時、辻井家本邸。
リビングの革張りソファで優雅にエスプレッソを口にしていた翔大は、玄関の開く音に気づいて顔を上げた。
そこに入ってきたのは、白いスーツに身を包んだ結紗だった。
「なんだ、一晩も持たずに泣きついてきたのか? 土下座して静恵に謝るなら、家政婦として住まわせてやらないこともないぞ。お前みたいな女、俺がいなければ生きていけないんだからな」
翔大はソファにふんぞり返り、傲慢な態度で結紗を見下した。
結紗は翔大を一瞥すらすることなく、真っ直ぐに2階の書斎へ向かった。
「私のプロジェクトのコアデータを保存したハードディスクを回収しに来ただけよ」
数分後、黒い暗号化ハードディスクを手にした結紗が階段を降りてくると、翔大が血走った目で待ち構えていた。
「返せ! そのハードディスクを置いていけ! あの『ココロネ』AIプロジェクトは辻井グループの資産だ! お前が作ったものは、すべて俺のものだろうが!」
果てしなく貪欲で無知な男は、他人の成果を自分のものだと信じて疑わなかった。
結紗は階段の手前で立ち止まり、冷たく言い放った。
「『ココロネ』の基本アルゴリズムは、私が辻井家に入る前から個人で開発していたものよ。特許権の帰属先は私の個人名義よ」
結紗がそのまま玄関へ向かおうとすると、翔大が慌てて結紗の腕を力任せに掴んだ。
「待て! 勝手に出て行くなんて許さないぞ!」
結紗が本当に自分から離れていくのだと悟った瞬間、翔大の傲慢な態度は焦りへと変わった。
「怒ってもいい、喧嘩してもいい。だが、終わりにするなんて言葉は絶対に許さない! お前は一生、俺の妻なんだ!」
果てしなく身勝手なその言葉に、結紗は心底おかしそうに冷笑を漏らした。
「妻? 私たちに婚姻届なんてあったかしら?」
その言葉を聞いた翔大は、結紗が自分を脅すために家を出たのだと勘違いし、途端に得意げな表情を浮かべた。
「なんだ、これだけ騒いだのは俺に婚姻届を出させるための脅しだったのか? いいだろう、出してやるよ。静恵も妊娠したし、母さんももう反対しないだろう。後で役所に行ってやる。だが、籍を入れたら大人しくしろよ。ちゃんと家を守って、静恵の世話をしろ!」
どこまでも自分本位な施しの言葉に、結紗は強烈な吐き気を覚えた。
結紗は掴まれた腕を鋭く振り払い、氷のように冷たい声で告げた。
「私はもう別の人と籍を入れたわ。二度と触らないで、自重しなさい」
「なっ……別の人だと!? ふざけるな、そんな嘘が通用すると……」
翔大が再び怒鳴り散らそうとしたその時、階段の上からシルクのワンピースを着た静恵が、わざとらしく腹部を押さえながら降りてきた。
「翔大さん……なんだか、お腹が痛いみたい……っ」
そのか弱そうな声を聞いた瞬間、翔大の表情が一変した。彼は結紗のことなど完全に放置し、血相を変えて静恵の元へ駆け寄った。
「静恵! 大丈夫か!? 怖がるな、今すぐ病院へ連れて行くからな!」
翔大は静恵の肩を優しく抱き寄せ、この世で最も大切なものを守るような顔をした。
結紗は、かつて自分だけに向けられていたその優しい眼差しが、今や別の女に向けられている光景を冷ややかに見つめた。胸の奥から込み上げてくるのは悲しみではなく、底知れぬ嫌悪感と悪寒だった。
「お似合いの二人ね。せいぜいお幸せに」
結紗は背を向け、辻井家の重い扉を二度と振り返ることなく後にした。
門の外には、漆黒のマイバッハが静かに待機していた。
後部座席のドアが開き、結紗が車内へ滑り込む。
譲貴のシダーウッドの香りに包まれた瞬間、これまで張り詰めていた結紗の神経の糸が、ふっつりと音を立てて切れた。
「結紗……?」
譲貴の心配そうな声が遠のいていく。
結紗の身体が横へと倒れ込み、譲貴の温かい腕の中に力なく崩れ落ちた。
「青柳、健民医療センターへ急げ! 今すぐだ!」
(一体……私に何が起きたの……?)
結紗は薄れゆく意識の中で、深い暗闇へと落ちていった。
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