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第2章 未入籍の真相と深夜来電

冷たいコール音が2回鳴ったところで、受話器の向こうから低く威圧感のあるバリトンの声が響いた。

『結紗? ……ようやく俺に電話をかける気になったか』

松沢譲貴――。世界最高峰の投資機関「アトラス・キャピタル」を裏で率いる絶対的な覇王であり、同時に、辻井翔大の属する辻井家が到底逆らうことのできない、松沢本家の筆頭当主。すなわち、翔大の従兄にあたる男の声だった。

結紗は濡れた前髪をかき上げ、雨音に負けない明瞭な声で告げた。

「松沢さん。3年前にあなたが口にしたあの提案、今でも有効かしら?」

電話口の息遣いが、わずか一秒だけ止まった。

次の瞬間、かすかな衣擦れの音とともに、低く確信に満ちた男の笑い声が耳朶を揺らした。

『君が相手なら、いついかなる時でも有効だ』

「条件があるわ。今夜、迎えを寄越す必要はない。明日、午前10時に港区役所の戸籍窓口で会いましょう」

『いいだろう。待っている』

通話を切った結紗は、スマートフォンの画面を拭い、近くのビジネスホテルへと駆け込んだ。

フロントの女性係員は、全身ずぶ濡れで黒いスーツケースを引く結紗の姿に目を見張ったが、迅速にチェックイン手続きを済ませ、ルームキーを手渡してくれた。

狭いシングルルームに入ると、結紗は湿ったコートを脱ぎ捨て、ノートパソコンを開いた。

改めて確認した行政データベースの画面には、はっきりと黒川結紗の『単独戸籍』が記録されている。

辻井翔大と過ごした3年間、自分は法的にただの「居候」であり、「無償の労働力」に過ぎなかったのだ。

怒りよりも先に、滑稽なまでの清々しさが胸を満たした。

結紗は戸籍謄本の電子データをスクリーンショットに収め、先ほどの暗号番号へ送信した。

『明日午前10時 港区役所』

送信完了のダイアログが消えた瞬間、深く息を吐き出し、椅子の背もたれに身を預けた。

同時刻、東京湾を望むアトラス・キャピタル東京本部の最上階。

広大な役員会議室では、百億円規模の海外企業買収を協議していた重役たちが、凍りついたように座っていた。

議長席に座る松沢譲貴は黒の高級スーツに身を包み、左手首の機械式時計をわずかに光らせていた。

手元の端末が震え、結紗からのメッセージがポップアップした瞬間、譲貴の漆黒の瞳に獰猛な光が宿った。

譲貴は手元の分厚い契約書を放り投げ、冷徹な声で言い放った。

「本日の会議はここまでだ。車を回せ」

筆頭秘書の青柳誠二郎が慌てて立ち上がった。

「譲貴様、しかし橋本財閥の代表が最終署名を待っております……!」

「待たせておけ。今この瞬間において、俺の妻を迎えに行くこと以上に優先すべき案件など、この地上に一つも存在しない」

その言葉に、会議室の重役たちは一斉に息を呑み、目を見開いた。

(妻だと……!? あの、女性が半径三メートル以内に近づくことすら許さない、冷酷無比な松沢代表に妻がいたというのか!? しかも、百億円の契約を蹴ってまで迎えに行くほど溺愛しているなんて……ただの政略結婚のはずがない!)

譲貴が足早に退出した後、社内ネットワークは瞬く間に前代未聞の八卦で持ちきりとなった。

「代表が長年密かに想い続けていた女性がついに見つかったらしい」という噂が、社員たちの間で熱を帯びて駆け巡ったのだ。

30分後、結紗が滞在するビジネスホテルの前に、漆黒のロールスロイスが静かに停車した。

傘を開いた譲貴はホテルの自動ドアをくぐり、エレベーターで結紗の部屋の前に立った。

ドアノブの横を、正確に3回ノックする。

結紗がドアスコープ越しに長身の影を確認し、ロックを外した瞬間、扉が開いた。

言葉を交わすよりも早く、かすかに煙草とシダーウッドの香りが染みついた温かいスーツのジャケットが、結紗の華奢な肩に掛けられた。

「……松沢さん?」

譲貴は無言のまま、結紗を見つめた。

青白い唇、湿った毛先、そして冷え切った指先。

譲貴の右手、親指と人差し指の間の古傷が、強く拳を握りしめたことで白く浮き上がった。

譲貴は一歩踏み込み、狭い玄関の壁に結紗を追い詰めるように距離を詰めた。

しかし、その手は結紗に触れることなく、彼女の耳元の壁にドンと置かれた。

「あの男は君をこんな粗末な部屋に放置するために、三年も囲っていたのか?」

低くかすれた声には、隠しきれない殺気が滲んでいた。結紗を見下ろす漆黒の瞳には、今すぐ彼女を自分だけのものにしたいという狂気じみた独占欲が渦巻いている。

だが、譲貴は壁に押し当てた手の甲に青筋を立て、強引に奪い尽くしたい衝動を理性の底で必死に押さえ込んでいた。壊れ物でも扱うかのように、彼女に指一本触れようとはしない。

結紗は、触れられてもいないのに肌が粟立つような、圧倒的で熱を帯びた気配に息を呑んだ。男の纏うシダーウッドの香りと、隠しきれない深い愛情に包み込まれ、心臓が不規則に跳ねる。

結紗は必死に理性をかき集め、その熱を帯びた視線から逃れるように、わずかに顔を背けた。

「これは私自身の選択よ。松沢さん、私たちの間に余計な同情は無用よ。これはあくまで互いの利害が一致した契約のはずでしょう」

譲貴はかすかに笑い、大きな掌を伸ばすと、親指の腹で結紗の頬に残る雨粒をそっと拭った。

その指先の温度は、驚くほど熱かった。

「契約? 結紗、君は俺の執着を甘く見すぎている」

「明日の入籍を終えたら、私には奪い返さなければならないものがあるわ。辻井グループに置いてきた、私の研究のすべてを」

譲貴はゆっくりと手を下ろし、金縁の眼鏡の奥に潜む狂気じみた独占欲を覆い隠した。

「望むままに。君の敵はすべて俺の獲物だ……結紗」

譲貴は一歩下がり、紳士的な距離を保ちながら手を差し伸べた。

「こんな湿気た部屋を出る。車に乗れ」

結紗は譲貴の手を取らず、自らスーツケースのハンドルを握った。

「ええ、行きましょう」

翌朝午前9時30分。

雲間から差し込む朝の光の中、結紗は仕立てのいい白のパンツスーツに身を包み、譲貴が用意した港区の高級レジデンスを後にした。

エントランスには、すでに深黒のマイバッハが待機していた。

運転席のドアの横に立つ譲貴は、完璧な仕立てのスリーピーススーツを纏い、結紗が近づくと自ら後部座席のドアを開けた。

「よく眠れたか」

「ええ。驚くほど頭が冴えているわ」

車内へと滑り込み、シートベルトを締める。

マイバッハは滑らかに発進し、港区役所へと向かって首都高速を滑るように走った。

結紗はバッグの中にある戸籍謄本と印鑑に触れ、冷たく唇を引き結んだ。

(辻井翔大、あなたが捨てたものが何だったのか、骨の髄まで教えてあげる。私を裏切った代償は、あなたたちの全てを奪うことで払わせるわ。)

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読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全70章

  1. 第1章第1章 雷雨の夜の決断と覚醒
  2. 第2章第2章 未入籍の真相と深夜来電
  3. 第3章第3章 区役所の誓約と傲慢の代償

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