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第2章 偽りの家族と屈辱

豪邸のリビングルームは、暖炉の柔らかな熱気と甘い洋菓子の香りに満ちていた。

窓の外で冷たい雨に打たれる理乃の瞳に映ったのは、純白のオーダーメイドケーキを前に、満面の笑みを浮かべる三人の姿だった。

雅人が背後から愛おしそうに莉音の華奢な肩を抱き寄せ、二人の手元には一本のケーキナイフが握られている。その足元では、五歳になる赤崎健斗がはしゃぎながら手を叩いていた。

「パパ、莉音ママ、早く切って! 健斗、イチゴがいっぱい食べたい!」

「こら、健斗。お行儀が悪いでしょ。雅人お兄ちゃん、健斗が待ちきれないみたい」

「莉音、焦るな。お前の一番好きな部分を切り分けてやるから」

完璧で、幸福な家族の肖像。

理乃の全身から、すうっと熱が引いていく。三年前、雅人は不妊宣告を受けた理乃にこう言ったはずだった。『養子を迎えよう。お前を愛しているから、血の繋がりなど関係ない』と。そうして孤児院から引き取られたはずの健斗を、理乃は身を削るようにして育ててきたのだ。

理乃は重い玄関ドアを押し開けた。

蝶番の軋む冷たい音が、室内の幸福な笑い声を一瞬で断ち切る。

リビングの三人が一斉に振り返った。ずぶ濡れで立ち尽くす理乃の姿を認めた瞬間、雅人の端正な顔立ちが醜く歪む。

「……何をしに戻った。横浜のラボにいろと言ったはずだ」

雅人の冷徹な声が、室内の温もりを急速に奪っていく。

莉音はわざとらしく口元を押さえ、怯えたように雅人の背後へと身を隠した。

「まあ……理乃さん、そんな泥だらけで……絨毯が汚れてしまいますわ」

健斗が駆け寄ってくると、理乃の足元に転がっていた濡れた傘を乱暴に蹴り飛ばした。

「お前なんかママじゃない! 汚いおばさん、あっち行け!」

理乃は健斗を一瞥すらせず、雅人の前へと歩み寄った。濡れた靴底が、ペルシャ絨毯に重たい水染みを作っていく。

「雅人さん、五百万円を貸してください。母が今夜手術を受けなければ、助からないの。利息をつけて必ず返します」

雅人は嘲笑を漏らし、グラスのシャンパンを一気に煽った。

「貸す? 仕事を無断放棄して、東京まで金を無心しに来たのか。お前にそんな価値があるとでも思っているのか?」

莉音が一歩進み出ると、テーブルの上の高級ティッシュをひと箱引き抜き、わざと理乃の足元へ放り落とした。

「可哀想に……理乃さん、お母様が大変なんですのね。私のお小遣いから十万円なら差し上げてもよろしくてよ? その代わり、研究所の権利放棄書にサインしてくださいな」

理乃は落ちたティッシュを容赦なく踏み躙り、雅人の目を真っ直ぐに見据えた。

「私がこの三年間で赤崎HDにもたらした特許利益は、数十億円を超えているはずです。その正当な対価の一部を、前借りしたいだけです」

「黙れ!」

雅人がテーブルを激しく叩いて立ち上がった。その長身から放たれる威圧感が、理乃の頭上からのしかかる。

「お前の研究など、莉音の監修があって初めて形になったものだ。思い上がるな、ただの孤児上がりが。赤崎家の看板がなければ、お前など野垂れ死んでいたんだぞ」

雅人は理乃の顎を荒々しく掴み上げ、骨が軋むほどの力で締め上げた。

「いいか、お前は赤崎家の飼い犬だ。飼い主の命令通りに働き、健斗の世話をし、莉音に手柄を譲る。それだけが貴様の存在価値だ」

理乃は視線を逸らさず、琥珀色の瞳の奥に冷たい炎を宿して言い放った。

「その言葉……二度と取り消さないでね」

理乃は雅人の手首を力任せに払いのけた。

雅人が目を見張る中、莉音の目配せを受けた健斗が、テーブルの上の氷水をグラスごと理乃の肩口へぶちまけた。

「出ていけ、バカ女!」

冷たい水が肌を伝い、ブラウスを冷たく張り付かせる。理乃は冷然と健斗を見下ろした。

「他人に水をかけるような下劣な振る舞い、誰に教わったのかしらね」

「貴様、子供相手に何を言っている!」

雅人が激昂し、スーツの内ポケットから小切手帳を取り出した。ペンを走らせ、乱暴に破り取った一枚の紙切れを、理乃の顔面目掛けて投げつける。

ひらりと舞い落ちた紙片には、『金伍拾萬円也』の文字。

「それを持って今すぐ消えろ。二度と私の前に現れるな」

莉音が勝ち誇った笑みを浮かべ、雅人の腕にすがりついた。

理乃は足元に落ちた小切手を、ゆっくりと拾い上げる。雅人の口元には、金に困って屈服するに違いないと確信した、傲慢な侮蔑が浮かんでいた。

だが次の瞬間、理乃の指先が動いた。

――ビリッ、ビリビリッ。

小切手は躊躇なく四つに引き裂かれ、雅人の胸元へと投げ返された。紙吹雪のように、雅人の高価なスーツの上に散らばる。

「……なっ?!」

「ゴミはゴミ箱に捨てなさい」

理乃は言い捨て、踵を返した。

「待て! 竹内理乃!」

背後から伸ばされた雅人の手を、理乃は鋭く身を翻して躱した。

「触らないで。私はもう赤崎HDの社員でもなければ、あなたの操り人形でもない。退職届はすでに出したわ」

「駆け引きのつもりなら命取りになるぞ! 赤崎の庇護を失って、お前一人で母親を救えるとでも思っているのか?!」

「ええ、救ってみせるわ。あなたたちのような浅ましい人間から、一円たりとも施しを受けずにね」

理乃は玄関へと歩を進め、濡れた靴に足を入れた。

「後悔するぞ! 明日になって泣きついてきても、絶対に許さんからな!」

背後から響く雅人の怒号を、重厚な玄関ドアが遮断した。

再び、降りしきる雨の中へと踏み出す。

スマートフォンが震え、慶応病院からの未納警告通知が画面を覆った。残り時間は、もう二十四時間もない。五百万円という数字が、鉛のように理乃の肩にのしかかる。

だが、理乃の背筋は微塵も曲がっていなかった。

冷たい雨水が頬を伝っても、その琥珀色の瞳は、闇夜を切り裂くように鋭く研ぎ澄まされていた。

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読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全63章

  1. 第1章第1章 冷酷な拒絶と退職の決意
  2. 第2章第2章 偽りの家族と屈辱
  3. 第3章第3章 決裂と薄情の証明

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