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寺井慎司は満足げにパイプ椅子を引き寄せると、暢江のベッド脇に腰を下ろした。 その仕草には、哀れな妻を保護してやっているという、家長特有の傲慢さが滲み出ていた。 「そうだ、僕だよ。暢江、君がひどいストレスを抱えていたのは分かっている。だが、起きてしまったことは仕方がない。まずはここで頭を冷やして、しっかり休養を取るんだ」 暢江は毛布を胸元まで引き上げ、掠れた声で問いかけた。 「私……どうしてこんなところにいるの? 私、ただ……真理乃さんと少し口論になっただけで……」 あえて「真理乃」の名を口にした瞬間、慎司の端整な眉間がピクリと跳ね上がった。彼は無意識に人差し指で眉間を強く揉み、不快感を隠すように息を吐き出す。 「まだそんなことを言っているのか。君はあのとき、完全に錯乱していたんだ。真理乃に向かって包丁を振り回さんばかりの勢いで暴言を吐き、自分自身を傷つけようとした。僕が止めに入らなければ、警察沙汰になるところだったんだぞ」 滑らかな嘘だった。まるで事実であるかのように語るその口ぶりに、暢江の心臓の奥が冷たく凍りついていく。 (錯乱していたのは、あなたたちのほうでしょう) 真理乃が自分の家に上がり込み、慎司のシャツを指先で弄びながら「暢江さんはもう若くないし、子供も産めないのに慎司さんに寄生して可哀想」と嘲笑ったのだ。それに抗議した自分を、慎司は「真理乃を虐めるな」と突き飛ばした。 暢江は瞳にわざと涙を溜め、震える唇を開いた。 「そんな……私、暴れてなんていません……。真理乃さんが私に言ったんです。お前は夫にふさわしくない、仕事すら守れない無能だって……」 「馬鹿を言うな!」 慎司の声が一段鋭く跳ね上がった。 妻が侮辱されたことへの怒りではない。最愛の「幼馴染」を悪く言われたことに対する、過剰な防衛反応だった。 「真理乃がそんな下品なことを言うはずがないだろう! 彼女は昔、誘拐事件に巻き込まれて心に深い傷を負っているんだ。人を傷つけるような性格じゃない。君が精神的に追い詰められて、被害妄想の幻覚を見たんだよ」 「幻覚……?」 暢江は自嘲するように涙を零した。 十年。この男のために家事を完璧にこなし、パートで生活費を補い、義理の家族からの嫌味にも耐え続けてきた。その結末が「お前の言葉はすべて精神病の幻覚」という断定だった。 慎司は暢江の涙を見て、ようやく彼女が屈服したと誤認したらしい。ふっと表情を緩め、慰めるように手を伸ばしてきた。 「分かればいいんだ。君が素直になりさえすれば――」 男の指先が肩に触れそうになった瞬間、暢江は焼きごてを当てられたかのように激しく身を引いた。 「っ……!」 慎司の手が空中で止まる。露骨な拒絶に男のプライドが傷つけられたのか、顔色が一瞬で険しくなった。 「……何をするんだ」 「ごめんなさい……怖くて……触られると、体が勝手に……」 暢江は即座に両腕で自分の体を抱きしめ、小刻みに震えてみせた。弱者を装う芝居は、かつて真理乃が慎司の前で散々見せつけてきた手口だ。真似るなど造作もなかった。 怯えきった妻の姿を見て、慎司は舌打ちを飲み込み、再び眉間を指先で揉んだ。苛立ちから逃避するための、彼の長年の癖だった。 「まったく……まあいい。とにかく主治医には僕から話を通してある。君が大人しく治療を受けられるよう、万全の処置を頼んでおいたからな」 「万全の処置」という言葉に含まれた冷酷な響きを、暢江は聞き逃さなかった。強い鎮静剤漬けにして、廃人に仕立て上げる算段なのだろう。 「慎司さん……私、いつお家に帰れるの? ここ、鉄格子があって怖いの。早くあなたと一緒に帰りたい……」 甘えるように上目遣いで懇願すると、慎司の口元にふたたび微かな満足感が浮かんだ。自分に依存し、自分なしでは生きられない惨めな妻。その構図が彼の歪んだ自尊心を満たすのだ。 「君の情緒が安定したら迎えに来てやる。だから聞き分けよく薬を飲んで、寝ているんだ」 「……真理乃さんと、息子の翼くんは無事なの?」 殊勝な様子で尋ねると、慎司の瞳に紛れもない本物の柔らかさが宿った。自分に対しては一度も見せたことのない、慈愛の光だった。 「ああ。真理乃は君に怒鳴られてひどく怯えていたが、僕が宥めて休ませた。翼も元気だ。あの子は僕にとても懐いているからね」 その言葉が、暢江の胸の奥に残っていた最後の情を、跡形もなく消し炭にした。 他人の子を愛おしそうに語り、実の妻を精神科に放り込んで満足している男。吐き気すら通り越し、ただただ底知れない冷気が全身を満たしていく。 「そう……よかった……」 「じゃあ、僕はそろそろ行くよ。夕方から緊急のオペが入っているんだ」 慎司が立ち上がり、身だしなみを整えるように白衣の裾を払った。 「慎司さん!」 暢江が不意に呼び止めた。男が鬱陶しそうに振り返る。 「……最後に一度だけ、抱きしめてくれませんか? すごく心細くて」 慎司はわずかに眉をひそめて躊躇したが、ベッドの上の震える女があまりにも哀れに見えたのだろう。支配者としての慈悲を与えるように、義務的な足取りで歩み寄り、軽く腕を回してきた。 抱きしめられた体は木石のように硬く、体温など微塵も感じられなかった。 暢江はその冷たい肩に顔を埋めた。 慎司には見えない位置で、暢江の瞳に獲物を狙う野獣のような獰猛な光が宿る。 彼女は震えるふりをしながら、右手の人差し指の爪を慎司の白衣の右ポケットの縁に立てた。前世で彼の衣服のほつれを何百回と繕った暢江は、彼の白衣の布地の構造を熟知していた。 爪先でポケットの内側に染み付いたごく小さな「汚れ」の感触を確かめ、そこに深い折り目をつけるように痕を刻み込んだ。 「よし、もういいだろう」 慎司はわずか数秒で暢江の体を突き放した。まるで汚物に触れた手を払うような手つきだった。 「……うん。お仕事、頑張ってね」 暢江は涙を拭い、健気な妻の笑みを浮かべて見送った。 扉が閉まり、再び重い施錠の音が響く。 部屋の中に一人残された暢江は、ゆっくりとベッドから起き上がった。顔からあらゆる感情が抜け落ち、氷のような無機質な表情へと変わる。 彼女はゴミ箱の底に転がる白い錠剤を見つめた。 慎司の白衣のポケットにあった淡い油染みと、微かに漂っていた生姜の匂い。真理乃が得意げに作る、あの男の好物である生姜焼きのタレの匂いだ。 (慎司、あなたは今日、あの女の作った弁当をポケットに隠してここへ来たのね) 妻を精神科へ叩き込んだ足で、愛人の弁当を味わう男。 暢江の唇の端が、鋭利な刃物のように吊り上がった。 反撃の準備は、すでに整いつつあった。