/0/22249/coverbig.jpg)
/0/27166/coverbig.jpg)
第3章
慎司が去ってから、丸二日が経過した。 その間、暢江は模範的な「大人しい患者」を演じ続けた。 配られる精神安定剤はすべて巧妙に舌の裏へ隠し、看護師の中村が立ち去った後に吐き出してトイレへ流した。食事は残さず平らげ、虚ろな目でベッドに座り続けた。 三日目の午後、暢江の計算通りに隙が生まれた。 中村恵子をはじめとする主力の看護師たちは、他病棟での緊急カンファレンスに駆り出されており、詰所にはまだ経験の浅い若い看護師が一人、船を漕ぎながら座っているだけだった。 暢江は病室のドアノブに手をかけた。日頃の従順な態度が功を奏し、日中の鍵は掛けられていなかった。 足音を忍ばせ、ふらつく足取りで廊下へ出る。 詰所のカウンターの前まで辿り着くと、暢江はわざと荒い呼吸を繰り返し、胸元を強くかきむしった。 「う……あ……っ」 「えっ? 高島さん?!」 居眠りから跳ね起きた若い看護師が、青ざめてカウンターから飛び出してきた。 暢江は白目を剥くように視線を泳がせ、カウンターの縁を掴みながら、糸の切れた人形のようにその場へ崩れ落ちた。 「息が……苦し……胸が……」 「た、大変! 先生を呼んでこなきゃ……待っててください!」 エリート医師の妻という肩書の患者が急変したとなれば、新人看護師にとっては一大事だ。彼女はパニックに陥り、ナースコールの受話器を取る余裕すら失って、廊下の奥の当直医室へ向かって走り去った。 足音が曲がり角の向こうへ消えた瞬間、暢江は床を蹴って立ち上がった。 素早い動作で詰所のドアを押し開け、カウンターの内側へ滑り込む。 机の上の内線電話の受話器を掴み、外線発信ボタンを押した。ダイヤルする番号は、指先が勝手に覚えていた。前世の十年で何千回とかけた、慎司の大学病院外科医局の直通番号だ。 コール音が三回。 『もしもし、外科の寺井です』 受話器の向こうから、聞き慣れたあの冷淡で神経質な声が響いた。 暢江は喉を絞り、恐怖に狂った女の絶叫を作り出した。 「慎司さん……! たすけて……っ!」 『……暢江?! お前、どうやって電話を……何をしているんだ!』 「殺される……! 中村看護師が……『あなたが死ねば寺井先生は真理乃さんと晴れて一緒になれる』って……! 薬を毒薬に変えられたの! お願い、助けて、慎司さん!」 受話器の向こうが、息を呑むような完全な沈黙に包まれた。 暢江は口元に冷笑を浮かべながら、受話器に向かって荒い過呼吸の音を吹き込み続けた。 寺井慎司という男の本質を、彼女は誰よりも知っている。彼は妻の命などどうでもいいが、自分の社会的信用とキャリア、そして何より愛する真理乃の名がスキャンダルに塗れることを何よりも恐れているのだ。 「精神科病棟でエリート医師の妻が不審死」「愛人の指示で看護師が毒殺」――そんな週刊誌の見出しが、今頃あの男の脳裏を埋め尽くしているはずだった。 『……馬鹿なことを言うな! 今すぐ病室へ戻れ! 僕が今からそっちへ行く!』 ガチャリと乱暴に電話が切れた。 暢江は冷静に受話器を戻し、指紋を白衣の袖で拭うと、先ほど倒れていた廊下の床へ戻ってうずくまった。 数分後、若い看護師が当直医を連れて血相を変えて戻ってきたが、暢江はただ「胸が痛い」と震えるだけで、電話の件には一切触れなかった。 それから三十分も経たないうちに、病院の廊下にけたたましい足音が響き渡った。 現れたのは、額に青筋を立てた慎司だった。その後ろには、病院長がペコペコと頭を下げながら追従している。 「寺井先生、本当にそのような手違いは……」 「いいから、妻と二人きりにさせてください!」 慎司は病室のドアを乱暴に開け放ち、中に踏み込んできた。ベッドの上で毛布に包まる暢江を一瞥し、背後の院長たちに向かって「席を外してくれ」と冷たく命じた。 鉄の扉が閉ざされ、密室に二人きりになる。 慎司はネクタイを乱暴に緩め、怒気を含んだ声で暢江に詰め寄った。 「暢江、いい加減にしろ! 毒薬だと? 中村看護師が真理乃の名を出しただと?! そんな妄想を病院の電話で喚き散らすなんて、僕の立場をどれだけ危うくすれば気が済むんだ!」 暢江はゆっくりと上体を起こした。 その顔には、先ほどまでの怯えも狂気の片鱗もなかった。澄み切った秋の湖面のように静かで、底知れぬ冷たさを湛えた瞳が慎司を射抜いた。 「離婚しましょう、寺井先生」 慎司の怒声がピタリと止まった。 彼は呆気にとられたように口を半開きにし、それから小馬鹿にしたような笑いを漏らした。 「……は? 離婚? おいおい、本当に頭がおかしくなったのか? 仕事を失い、精神科にぶち込まれたお前が、僕と離婚してどうやって生きていく気だ? 世間がお前のような女をどう扱うか、分かっていないのか?」 「どう生きるかは私の問題です」 暢江はベッドから静かに降り、裸足のまま冷たい床の上に立った。背筋を真っ直ぐに伸ばしたその佇まいは、慎司が見知っている「従順な妻」とは完全に別人の威厳を放っていた。 「十年間の婚姻関係を、今ここで清算しましょう。寺井医師」 「寺井医師だと……?」 他人行儀極まりない呼び名に、慎司のプライドが激しく逆撫でされた。彼は拳を固く握りしめ、威圧するように一歩踏み出した。 「ふざけるな! 誰の金でこれまで飯を食ってきたと思っている! 真理乃への嫉妬で狂言を弄し、僕のキャリアに泥を塗ろうとするなんて、どこまで浅ましいんだ!」 暢江は微動だにしなかった。むしろ嘲笑うように一歩前へ進み出た。 二人の距離が縮まる。身長差はあるはずなのに、見下ろされているのは慎司の方であるかのような錯覚が部屋を支配した。 「真理乃さん、三日前の昼にあなたの病院へ来ましたね? 手作りの生姜焼き弁当を届けるために」 慎司の喉がヒュッと音を立てて狭まった。 「な……何を……」 暢江は冷たい指先を伸ばし、慎司の白衣の右ポケットをトンと突いた。 「このポケットの内側、タレの油染みがついていますよ。匂いも消えていません。あなたがその弁当をここに持ち込み、私を病棟へ閉じ込めた後に美味しくいただいたことも、全部知っています」 慎司の顔から、急速に血の気が引いていった。 彼は無意識にポケットを押さえた。確かにそこには、真理乃から渡された弁当の包みから漏れた微かな染みがあった。誰にも言っていない。真理乃と二人きりの医局で食べたはずだった。なぜ閉鎖病棟にいたこの女が知っている? 「寺井慎司さん」 暢江の低い囁きが、悪魔の宣告のように耳朶を打った。 「『名門病院のエリート外科医、愛人のために正妻を精神科病棟へ強制隔離し不審死を偽装か』――この見出し、週刊誌やテレビのワイドショーに持ち込んだら、いくらで買い取ってくれるかしらね?」 慎司の瞳孔が、恐怖で極限まで収縮した。
章一覧
全10章
/0/24817/coverbig.jpg)
/0/22466/coverbig.jpg)
/0/24872/coverbig.jpg)
/0/24540/coverbig.jpg)
/0/25980/coverbig.jpg)
/0/27106/coverbig.jpg)
/0/27105/coverbig.jpg)
/0/27221/coverbig.jpg)
/0/27154/coverbig.jpg)
/0/27104/coverbig.jpg)
/0/27150/coverbig.jpg)