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野原沙織(Nohara Saori)はミニクーパー(Mini Cooper)から耳障りなブレーキ音を響かせながら、病院の正門に疾走して止まった。運転席から飛び降りた彼女は、すぐにロビーで診察用の椅子に呆然と座っている理結の姿を目にした。 「理結!」 彼女はただ、自分が着ていたジャケットを脱ぎ、理結の肩にかけると、彼女の華奢な体を支え起こし、助手席に座らせた。 車内の暖かい空気が、理結の凍えた指先を少しずつ溶かしていく。 「とりあえずこれ飲んで」 沙織は、熱い缶コーヒーを理結の手に握らせた。その声には、抑えきれない怒りが滲んでいる。「昼の経済ニュースを見たわ。伊藤のあのクソ野郎……いつか絶対にあいつをずたずたにしてやる。」 理結は、缶コーヒーを握りしめたまま何も言わなかった。窓の外を流れていく街の景色を、虚ろな目で見つめている。 三年前。母である竹本雪蘭に連れられて伊藤家に足を踏み入れた日のことを、思い出していた。何の地位もない義理の娘として、冷たい視線と侮蔑の中で生きていた。 そんな彼女の灰色の世界に、光を差してくれたのが伊藤龍平だった。 彼は、理結をいじめる使用人たちから庇ってくれた。豪邸での作法を、優しく教えてくれた。 深夜の書斎で勉強を教えてくれた彼の手が、不意に自分の手に触れた時の胸のときめき。 誕生日に、人目を忍んでプレゼントしてくれた安物の星月のネックレス。 パーティーで理結の嫌いな食べ物が出ると、さりげなく自分の皿に取り分けてくれたこと。 「理結、今は辛い思いをさせてごめん、僕がグループを完全に掌握したら、すぐに君を僕の妻としてみんなに紹介する」 彼の甘い言葉の一つ一つが、今では毒を塗られたナイフとなって、理結の心臓を何度も何度も突き刺す。 沈黙を破ったのは、沙織だった。 「で。どこに行くの?あの『家』に帰るわけ?」 『家』という言葉に、棘があった。 理結はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。 「うん。取り返さないといけないものがあるから」 その声は、恐ろしいほどに静かだった。 沙織は、理結の横顔を一瞥すると、それ以上は何も言わずアクセルを強く踏み込んだ。車は、伊藤家の豪邸が建つ高級住宅街へと向かっていく。 彫刻の施された重厚な鉄門の前で、車が止まった。 理結は、シートベルトを外しながら沙織に言った。 「ここで待ってて、すぐに出てくるから」 「十五分経っても出てこなかったら、乗り込むからね」 沙織の心配そうな声に背中を押され、理結は車を降りた。ギプスをつけた足を引きずりながら、かつて自分の居場所だと信じていた場所へと一歩一歩進んでいく。その背中は、悲しいほどに決然としていた。 玄関のドアを開けると、広いリビングは静まり返っていた。アンティークの振り子時計の音だけが、カチコチと響いている。 ソファに、男が座っていた。 伊藤龍平だった。 彼は、まるで理結が帰ってくるのを待っていたかのように、優雅に赤ワインのグラスを傾けていた。記者会見で着ていたのと、同じスーツ姿だ。 理結は玄関からリビングに入り、テーブルのそばで立ち止まった。 彼の視線が、理結の足元にあるギプスに注がれた。ほんの0.5秒。すぐに、興味を失ったように逸らされる。 その瞳には、罪悪感も心配も一片たりとも浮かんでいなかった。ただ、氷のような無関心だけが広がっている。 理結の心臓が、どくんと音を立てて奈落の底へ落ちていった。最後の幻想の火種が、完全に消え失せた。 龍平は、グラスをテーブルに置くと立ち上がった。 「ニュース、見たんだな」 それは問いかけではなかった。事実の確認だった。 理結は答えなかった。ただ、目の前の男を静かに見つめていた。まるで、初めて会う他人を見るかのように。 龍平は、ゆっくりと彼女に歩み寄ってきた。彼の体からは、高級なコロンとワインの香りが混じり合って漂ってくる。 彼は、理結の目の前で立ち止まると、彼女を見下ろした。その声には、何の感情も含まれていなかった。 「少し、話がある」 その態度は、まるで彼がすべてを支配する王であり、理結はただ判決を待つだけの囚人であるかのようだった。

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章一覧

全60章

  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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