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「座ったらどうだ。立っているのは疲れるだろう」 伊藤龍平は、サイドボードから新しいグラスを取り出すと、こともなげに赤ワインを注いだ。そして、それを理結の前に差し出した。まるで何もなかったかのような振る舞いだった。 理結は、そのグラスを受け取らなかった。座ることもしなかった。ただ、冷え切った瞳で彼を見据える。 「伊藤龍平さん、一体何の話ですの?」 龍平は、理結のその態度に面白がるように口の端を上げた。彼は、差し出したグラスを引っ込めると、自分で一口飲む。 「絢子との婚約は、家の決定だ。伊藤家にとっても鷹司家にとっても利益がある。僕に拒否権はない」 彼は、裏切り行為を「ビジネス」という一言で片付けた。理結の三年間が、まるで取るに足らないおまけだったかのように。 「拒否権はない」。その言葉が、理結の胸を抉った。 「では私は?私たちの三年間は何だったのですか?」 龍平は、彼女の前に歩み寄ると手を伸ばした。以前のように、彼女の頬を撫でようとする。 理結は、反射的に一歩後ずさり、彼の手に触れられるのを避けた。その瞳には、明確な拒絶と嫌悪が浮かんでいた。 龍平の手が、宙で止まる。彼の表情から、初めて笑みが消えた。 「理結、我儘を言うな」 彼は一度間を置くと、気を取り直したように寛大な主人のような口調で言った。 「確かに、今回の件で、君に辛い思いをさせたことは認める」 「だが、だからといって、僕たちの関係が終わるわけじゃない」 理結は、信じられないという顔で彼を見上げた。彼の言葉の意味が、理解できなかった。 龍平は、テーブルの上に置かれた書類とベルベットの小箱を指差した。 「君は、これからもここに住めばいい」 彼は、書類を理結の方へ押しやる。「この豪邸、君の名義にしておく。それから、このカードに利用限度額はない。好きなもの、何でも買っていいよ。」 彼は、小箱を開けた。中には、眩いばかりのダイヤモンドのネックレスが収められている。 理結の視線は、書類や宝石には向かなかった。彼女は、龍平の目を真っ直ぐに見つめた。 「どういう意味ですか?」 龍平は、ついにその本性を露わにした。 「僕は絢子と結婚する。そして、君は僕の女でいればいい。今まで通りだ。ただ、公にできないというだけだ」 彼は、施しを与えるような口調で、理結に「秘密の恋人」から「囲われる愛人」への降格を宣告した。 理結の全身が、怒りで震えた。これほどの侮辱を受けたことはなかった。 彼女は笑い出した。その笑い声は、悲しく、そして皮肉に満ちていた。 「伊藤龍平さん、どうして私が、そんな条件を飲むと思うの?」 龍平は、眉をひそめた。彼女の反応が、不満でたまらないという顔だ。 「理結、僕から離れて伊藤家から出て行って、君に何ができる?君の母親は、まだうちからの援助を必要としているんだぞ」 彼は、理結の母親を人質にした。それが、彼の最後の切り札だった。 理結の笑い声が、ぴたりと止んだ。彼女の瞳が、刃物のように鋭く光る。 次の瞬間。彼女は右手を振り上げた。 そして、ありったけの力を込めて龍平の左頬を打ち据えた。 パァン! 乾いた音が、だだっ広いリビングに響き渡った。 龍平は、顔を横に逸らされ、かけていた金縁の眼鏡が歪んだ。彼の頬には、くっきりと五本の指の跡が浮かび上がっている。 彼は、完全に呆然としていた。いつも従順だった理結が、自分に手を上げることなど想像もしていなかったのだろう。 理結の手のひらは、ジンジンと痺れていた。しかし、心の中では歪んだ快感が渦巻いていた。 「伊藤龍平さん、よく聞いて」 彼女の声は小さかったが、一つ一つの言葉は氷の錐のように鋭かった。 「私たちは、これで終わりよ」 彼女は、テーブルの上の「補償」を一瞥した。その瞳には、軽蔑しか浮かんでいない。「そんな汚らわしいもの。ご自分で持っていればいいわ」 そう言い放つと、彼女はもう二度と彼を振り返らなかった。 怪我をした足を引きずりながら、決然と玄関へと向かう。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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