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―― 浅野綾美 ――

翌朝、私は区役所へ向かった。青山真人が「記憶を取り戻す」と周囲に語っていた、その日だった。この日のために、何ヶ月も前から準備を進めてきた。新しい戸籍を作るための複雑な法的手続き、必要書類の収集。すべては今日という日のために。

窓口で改名許可の審判書類と転居届を提出した。

「浅野綾美から、浜崎結奈へ」

新しい名前を口にするたびに、心に新しい風が吹くのを感じた。浜崎は母方の祖母の旧姓だ。祖母は私が幼い頃に亡くなったが、私をとても可愛がってくれた。祖母はいつも言っていた。「結奈は、どんな困難にも負けない強い子だから」と。

家庭裁判所の許可を得るまでには数ヶ月かかったが、今日、ようやく手続きが完了した。新しい戸籍が発行される。今日はその受付——しかし私にとっては、これが何よりの決別の儀式だった。

役所を出て、自宅へ戻る。家の中は真人と過ごした七年間の思い出で溢れている。私はそれらを一つ一つ、丁寧にダンボール箱に詰めていった。

「もう、私には必要ない」

そう呟くたびに、心は軽くなっていった。ベッドの下から古いダンボール箱を取り出す。中には大学時代に撮った写真や、パリ留学の資料が入っていた。その資料を手に取り、指でなぞる。

「私は、私の夢を叶えるんだ」

作業の途中、スマートフォンが鳴った。画面には「西辻萌」の名前が表示されている。迷わず着信拒否ボタンを押した。

その瞬間、玄関のチャイムが激しく鳴り響いた。ドアスコープを覗くと——そこに立っていたのは西辻萌だった。彼女の隣には、真人の友人である杉森一徹が立っている。

「綾美さん、いるんでしょ? 真人さんが記憶を取り戻したのよ! あなたにお礼を言いに来たわ!」萌の声がドア越しに響いた。

私は息を殺して動かなかった。しかし萌は諦めなかった。

「綾美さん! あなた、真人さんのために尽くしてきたんでしょ? 真人さん、あなたのこと感謝してるわよ!」

——感謝? 私の心を弄んでおいて、感謝だと?

「萌、やめろ。綾美が嫌がってるだろ」杉森一徹が萌を制止した。

「何よ、一徹さん。あなた綾美さんの味方なの?」萌は杉森を睨みつけた。

「萌ちゃん、真人、本当に記憶戻ったんだってな。おめでとう」杉森の声が少し冷たく聞こえた。

「ええ、もちろんよ! 真人さんは私の愛の力で記憶を取り戻したのよ!」萌は得意げに笑った。

「そうか。それは良かったな。で、これからどうするんだ? まさか真人さんが綾美を捨てるわけじゃないだろ?」杉森の言葉に、萌の表情が一瞬硬直した。

「何言ってるのよ! 真人さんは私のものよ! 綾美さんなんか、もう用済みだわ!」

私は彼女たちの会話を、ただ無表情で聞いていた。真人が萌に語った言葉が脳裏を駆け巡る——「あいつは俺の財力と権力に擦り寄ってきただけだ」。真人は萌のことも——結局は利用するだけなのだ。

「綾美さん! 聞こえてるんでしょ! 真人さん、あなたにはもう興味ないって言ってたわよ!」萌の声が再びドア越しに響いた。

「萌、いい加減にしろ。綾美はもうお前たちと関わりたくないんだよ」杉森が再び萌を制止した。

「何よ! 私が真人さんの正妻になるのよ!」萌はドアを蹴った。

私は引き出しからパスポートを取り出した。浜崎結奈——新しい私の名が刻まれている。 深く息を吸い込む。

「これで、全部終わりにする」

だが、この時はまだ知らなかった。終わりにしようとすればするほど、彼らは追いかけてくることを。

続きを読みますか?

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全12章

  1. 第1章チャプター 1 第1章
  2. 第2章チャプター 2 第2章
  3. 第3章チャプター 3 第3章

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