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あの夜、理実がどうやって正樹の質疑を乗り切ったのか、記憶は曖昧だった。ただ、言われるがままに白いワンピースを着て、作り笑顔で夕食の席につき、機械のように料理を口に運んだ。 翌朝、正樹がいつも通り会社へ向かった後、理実は一人、冷たいリビングのソファに座り込んでいた。腹部の奥が、鈍く痛む。昨夜からの精神的な重圧が、身体を蝕んでいるようだった。 痛みを無視しようとしたが、それは断続的に続き、やがて無視できないほどの強い下腹部痛に変わった。 理実は、重い身体を引きずるようにして立ち上がり、コートを羽織ると、一人でマンションを出た。タクシーを拾う気力もなく、最寄りの駅から電車に乗り、総合病院へと向かった。 婦人科の待合室は、幸せそうな空気に満ちていた。夫に付き添われ、お腹を愛おしそうに撫でる妊婦たち。その光景が、理実の心を鋭く刺した。 自分の名前が呼ばれ、診察室に入る。年配の女性医師は、理実の顔色の悪さに気づき、すぐに内診台へと促した。 「最近、何か大きなストレスを感じるようなことはありましたか?」 超音波検査を終えた医師が、厳しい表情で尋ねた。 理実は、昨夜見たあの計画書のことを思い出し、唇を固く結んだ。 「松本さん。残念ながら、切迫流産の兆候が見られます。非常に危険な状態です」 医師の言葉は、雷鳴のように理実の頭に響いた。 「赤ちゃんが、お腹の中で苦しがっているサインです。絶対安静にしてください。仕事は?」 「……専業主婦です」 「ご主人は? ご主人の協力が必要ですよ」 協力。その言葉が、理実の胸に空虚に響いた。 処方箋を握りしめ、ふらふらと診察室を出る。廊下の突き当たりの窓辺に立ち、外を行き交う車をぼんやりと眺めた。 どうしようもない孤独感と不安が、津波のように押し寄せる。この子の父親は、自分を愛してすらいない。それどころか、自分を憎むべき女の代用品としか見ていない。 それでも。もしも、ほんの少しでも——父親としての情が彼にあるのなら。 理実は、震える手でスマートフォンを取り出し、正樹の番号をタップした。 『大阪に出張中』だと、彼は今朝言っていた。 長いコールの後、電話が繋がった。 「もしもし」 聞こえてきたのは、ひどく不機嫌で、苛立ちを隠そうともしない声だった。 「……わたし」 「何の用だ。今、会議中だと言ったはずだが」 冷たい声が、理実の最後の希望を打ち砕こうとする。 「ごめんなさい。でも、大切な話が……」 「手短にしろ」 理実は、深く息を吸った。涙が、こぼれ落ちそうになるのを必死で堪える。 「あの、大阪でのお仕事、順調?」 「ああ。だから、くだらないことで電話してくるな」 「そう……。あのね、実は……」 理実が子供のことを切り出そうとした、まさにその瞬間だった。 電話の向こうから、はっきりと聞こえたのだ。 『正樹、まだぁ? 早くこっちに来てよ』 甘ったるい嬌声。 それは、藤田理歌音の声だった。 理実の喉が凍りついた。言葉が音にならない。全身の血液が、足元から急速に冷えていく感覚。 正樹が慌てたように何かを言ったが、もう理実の耳には届かなかった。 彼は、大阪にはいなかった。理歌音と一緒にいたのだ。 ブツッと無慈悲な音を立てて、電話は一方的に切られた。 スマートフォンの画面に表示された、通話終了の文字。それが、理実の二年間を死刑宣告する判決文のように見えた。 理実は、ゆっくりとスマートフォンを下ろした。 窓の外の景色が、歪んで見える。 一筋、また一筋と、涙が頬を伝って流れ落ちた。だが、彼女はもう嗚咽しなかった。ただ、静かに涙を流すだけだった。 やがて、その涙も止まった。 理実は、手の甲で乱暴に頬を拭う。その瞳から、先ほどまでの僅かな期待や悲しみは消え失せ、氷のように冷たい底なしの静寂だけが宿っていた。

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章一覧

全70章

  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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