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第2章 母への侮辱反撃の狼煙

怜華が嵐のように去った後、乃枝の部屋には荷造りの音だけが静かに響いていた。葵が黙々と、しかし丁寧に衣類や小物をトランクに詰めていく。

乃枝は窓辺の椅子に腰かけ、古い医学書を静かに読んでいた。その姿は、明日見知らぬ遠い地へ嫁ぐ花嫁とは思えないほど落ち着き払っている。まるで週末の小旅行にでも出かけるかのような、日常の延長線上にある静けさだった。

「お嬢様、本当にこのまま……」

葵が耐えきれずに不安を口にした。このまま、あの鷹司家へ行ってしまわれるのですか、と。

「これでいいの」

乃枝はそれだけを答え、本から目を離さない。その横顔は、まるで感情を凍らせたかのようだった。

その時、再び扉が激しい音を立てて開かれた。

息を切らして立っていたのは、先ほどよりもさらに怒りの形相を浮かべた怜華だった。勝ち誇った笑みは消え、その瞳は憎悪に燃えている。自分のペースを乱された屈辱が、彼女を再びここに引き戻したのだ。

「まだそんな余裕があるなんて、信じられない!」

怜華は部屋に踏み込むと、乃枝が読んでいた本を乱暴に払い落とした。分厚い医学書が床に落ち、鈍い音を立てる。

「怜華様!」

葵が慌てて本を拾い上げ、乃枝を庇うように前に立った。乃枝はゆっくりと顔を上げ、冷たい視線で妹を見据える。

「まだ何か用?」

その声は、先ほどよりもさらに温度を失っていた。

怜華は嘲るように鼻を鳴らした。

「用ですって? ええ、そうよ。お姉様にとっておきのことを教えて差し上げようと思って。お父様が鷹司慧の本当の病状を知っていた、ってことをね」

乃枝の眉が、わずかにぴくりと動いた。葵が息をのむ。

怜華は乃枝のわずかな反応を見逃さず、勝ち誇ったように続けた。その声は蜜のように甘く、刃物のように鋭い。

「ただの植物状態じゃないのよ。事故の時の全身の傷は爛れ、何かの毒に侵されてもう長くはないんですって。お父様はすべて知った上で、お姉様を『処理』することに決めたの。厄介払いを鷹司家への恩売りに変えたってわけ。さすがだわ、私たちの父は」

父がそこまで非情であったという事実。乃枝の胸の奥を、氷の針で突き刺されたような鋭い痛みが貫いた。

だが、その表情は一瞬で氷のような冷徹さに戻る。感情を悟られてはならない。この女に、これ以上の喜びを与えてやる義理はなかった。

怜華は乃枝の動揺を敏感に感じ取り、畳み掛けるように言葉を重ねる。

「お姉様は捨てられたのよ。価値のない不良品としてね。――ちょうど、あの人みたいに」

怜華の視線が、乃枝が先ほどまで見ていた実母・静香の写真に向けられた。

怜華は写真立てを乱暴に手に取り、嘲笑を浮かべる。

「病弱で何の役にも立たず、家を衰退させただけのお荷物。そんな母親から生まれたお姉様が、同じ道を辿るのは当然のことだわ」

その言葉は、決して越えてはならない一線だった。

母への侮辱。

乃枝の全身から、殺気にも似た絶対零度の冷気が立ち上った。部屋の温度が数度下がったかのような錯覚を、葵は肌で感じた。

乃枝は無言で立ち上がった。その動きには一切の無駄がなく、しなやかで飢えた肉食獣を思わせた。

怜華は本能的な恐怖を感じ、思わず一歩後ずさる。

「な、何よ……」

次の瞬間、乃枝の手が怜華の胸元を掴み、その細い体を壁へと乱暴に押しつけた。

「っ……!」

背中を強く打ちつけた怜華の口から、息が詰まる。華奢な姉のどこに、こんな力が隠されていたのか。

「お嬢様!」

葵が悲鳴を上げるが、その声は遠い。今の乃枝の耳には、何も届いていなかった。

乃枝は怜華の顔を間近に寄せ、その鼻先が触れるほどの距離で、地を這うような声で囁いた。

「もう一度言ってみなさい」

怜華は恐怖に顔を引きつらせ、必死に首を振る。乃枝の瞳は、もはや正気を保った人間のそれには見えなかった。憎しみと怒りで燃え盛る、地獄の業火の色を宿している。

乃枝の手が、怜華の胸元から鎖骨へ、そして喉元へとゆっくりと這い上がる。指先が、怜華の白い喉仏の上で、ぴたりと止まった。

「私のことはどう罵ろうと構わない。でも、母を侮辱することだけは許さない」

喉元に添えられた指先の冷たさに、怜華の目から、生理的な涙がぼろぼろと溢れ出した。

(この指が、少しでも力を込めたら……)

その想像だけで、怜華の全身から血の気が引いていく。

乃枝は冷酷に言い放った。

「謝りなさい。私の母に」

怜華は恐怖のあまり、か細い声で喘いだ。

「ご……めんな……さい……」

その言葉を聞いた瞬間、乃枝はまるで汚れた布切れでも捨てるかのように、怜華を床へ突き放した。

「がはっ、ごほっ……!」

怜華は床に崩れ落ち、激しく咳き込みながら、恐怖に満ちた目で姉を見上げた。そこに立っていたのは、もはや彼女の知る大人しい姉ではなかった。

乃枝はポケットからシルクのハンカチを取り出し、怜華に触れた指を一本一本、丁寧に拭った。その仕草は、何よりも冷たく侮辱的だった。

そして、凍りつくような声で言い渡す。

「二度と私の前に現れないで。次に母を侮辱したら、あなたのその綺麗な顔がどうなるか保証しないわ」

怜華はその言葉の意味を理解し、恐怖で全身を震わせた。彼女はもはや何も言い返すことができず、這うようにして部屋から逃げ出した。

部屋に再び静けさが戻る。葵は主人の豹変ぶりに、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

乃枝は母の写真立てを手に取ると、怜華の指紋がついたガラスをハンカチで優しく拭った。

その瞳には、先ほどの激情の代わりに深い悲しみ、そしてより一層硬い決意が宿っていた。

父への最後の情も、この瞬間に完全に消え失せた。

あの人は、もう敵だ。

乃枝は葵に向き直り、静かに、しかしはっきりとした声で告げた。

「支度を続けて。もうこの家には、一瞬たりともいたくないわ」

その言葉は、松沢家との完全な決別宣言だった。

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読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全63章

  1. 第1章第1章 生ける屍への花嫁反撃の序章
  2. 第2章第2章 母への侮辱反撃の狼煙
  3. 第3章第3章 偽りの父決別の朝

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