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第3章 偽りの父決別の朝

怜華が逃げ去ったあとの静寂の中、乃枝は窓辺に立ち、夜の闇に沈む庭を見下ろしていた。かつては母と歩いた思い出の庭。だが今、その景色は色褪せて見えた。

「お嬢様……」

葵が先ほどの乃枝の姿に畏怖を抱きながらも、そっと温かいお茶を差し出す。主人の心労を少しでも和らげたい、その一心だった。

乃枝はそれを受け取らず、静かに過去を語り始めた。

「葵、私が小さい頃の話をしてあげましょうか」

葵は黙って耳を傾ける。乃枝の脳裏には、亡き母・静香が生きていた頃の記憶が鮮やかに蘇っていた。

幼い乃枝が庭で転んで、膝を擦りむいた日のこと。母の静香が慌てて駆け寄り、優しい手で傷口を清めて薬を塗ってくれた。「痛いの痛いの、飛んでいけ」と微笑みながら。その笑顔は、乃枝の世界のすべてだった。

しかしその傍らで、父・正義は当時まだ愛人であった今日子――怜華の母――とその娘である怜華と、親しげに談笑していた。こちらには目もくれない。まるで、自分と母が存在していないかのように。

静香の病状が悪化し、床に伏せる日が多くなっても、父の態度は変わらなかった。見舞いにもろくに来ず、その時間を怜華のピアノの発表会や乗馬の付き添いに費やしていた。病室で母の手を握る乃枝の耳に、隣のリビングから聞こえてくる楽しげな笑い声が、どれほど深く突き刺さったことか。

そして、静香が亡くなった日。乃枝が悲しみに暮れる中、父は冷たく呟いた。「家の恥が一つ減った」と。

その言葉を、乃枝は決して忘れない。父はまるで静香の死を待っていたかのように、すぐに今日子を後妻として家に迎え入れた。その手続きの早さは、世間の顰蹙を買うほどだった。

回想が終わり、乃枝の瞳には氷のような冷たい光が宿っていた。

「あの人は一度だって、私や母を愛したことはなかった。私たちはずっと、あの人の権力欲のための道具でしかなかったのよ」

葵は初めて聞く主人の辛い過去に、ただ涙を流すことしかできなかった。

「そんな……」

「だから、もういいの」乃枝は静かに首を振る。「期待も情けも何もない。あるのは母の無念を晴らし、私から奪われたものすべてを取り返すという、ただ一つの目的だけ」

父への感情は、失望を経て、完全に『復讐の対象』へと変わっていた。

その言葉の重みに、葵は息をのむ。目の前の主人は、もはや自分が仕えてきたか弱く心優しい令嬢ではない。復讐の女神へと変貌を遂げていた。

乃枝は決然とした表情で葵に向き直った。

「葵。あなたに一つ、頼みがあるの」

葵は背筋を伸ばし、深く頭を下げた。

「何なりとお申し付けください」

乃枝は葵の耳元に口を寄せ、静かに指示を囁いた。それは、怜華が明日の婚約披露パーティーで使うフランス製の高級化粧品に関する、ささやかで、けれど致命的な指示だった。

葵は一瞬、その内容に驚いて目を見開いたが、すぐに乃枝の意図を察して力強く頷いた。

「……承知いたしました」

夜が明け、乃枝が家を出る朝が来た。荷物は、葵が持つ一つのトランクだけだった。

階下のリビングでは、父・正義と継母・今日子、そして怜華が朝食をとっていた。怜華は昨夜の恐怖からか、乃枝と決して目を合わせようとしない。

正義は乃枝を一瞥し、事務的な口調で言った。

「運転手は玄関で待っている。鷹司家に着いたら、当主によろしく伝えておけ」

その言葉には、娘を遠い地へ送り出す父親としての情など、一片も感じられなかった。まるで、不要な家具を処分するかのような口ぶりだった。

今日子はわざとらしく微笑みかける。

「乃枝さんも、お体を大切になさってね」

その目は、蛇のように冷たかった。

乃枝は完璧な令嬢の作法で、深々と一礼した。

「お父様、お母様、怜華。皆様もお元気で」

そして、怜華に向かって意味深な笑みを浮かべた。

「怜華。あなたのパーティーの成功を、心から祈っているわ。きっと『忘れられない』一日になるでしょうから」

怜華はその言葉にビクリと肩を震わせ、顔を青くした。

乃枝はそれ以上何も言わず、葵だけを伴って玄関へと向かう。

背後から、正義の声が聞こえてきた。

「さあ怜華、お前の準備はいいのか? 近衛様をお待たせするわけにはいかんぞ」

蜂蜜のように甘く、優しい声だった。

その声が、乃枝の心に残っていた最後の未練の欠片を、完全に断ち切った。

玄関の重い扉を開けると、冷たい朝の空気が乃枝の頬をなでた。それは、この息の詰まる家からの解放の風だった。

彼女は一度も振り返らなかった。

黒塗りの車に乗り込むと、乃枝は運転手に静かに告げた。

「出発してください」

車がゆっくりと、壮麗な松沢家の屋敷を離れていく。乃枝はバックミラーに映る小さくなっていく我が家を、何の感慨もなく見送った。

彼女の心はすでに、遥か先の奥能登と、これから始まる復讐計画に向かっていた。

葵は主人の横顔に浮かぶ静かな決意を見て、自らも腹を括る。どこまでもこの方についていこう、と。

松沢乃枝の第二の人生が、今、静かに幕を開けた。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全63章

  1. 第1章第1章 生ける屍への花嫁反撃の序章
  2. 第2章第2章 母への侮辱反撃の狼煙
  3. 第3章第3章 偽りの父決別の朝

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