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第2章 痛いぞ、我慢しろ
佐藤夏希の涙に濡れた瞳に、一瞬、皮肉な光が宿った。
「大河家に取り入りたいくせに、自分の可愛い娘を縁起直しの花嫁になんて出したくないかよ。だったら、あんたが代わりに嫁げばいいでしょ」
「生意気な!」
佐藤玉蓮は、もはや取り繕う必要もないとばかりに、その悪辣な本性を露わにした。
「武藤雨音さんをずっと探しているんだろう? 三日前、私とあなたの父さんが彼女を見つけた。今、彼女の居場所を知っているのは私たち二人だけだ。 雪乃の代わりに大河家に嫁ぐと約束するなら、居場所を教えてやる。 母娘で再会させてやるよ」
一枚の写真が、夏希の前に投げつけられた。
夏希は震える手でその写真を拾い上げた。 そこに写る雨音の姿を見た瞬間、これまで必死に堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。
雨音は、夏希の実の母親だった。
十四年前、実の母・雨音は、玉蓮という愛人に精神を壊され、精神病院に入れられた。それ以来、夏希は父の康夫たちと暮らすしかなかった。
この十四年間、夏希は毎日、雨音を見舞いに行っていた。
だが、先月、雨音が精神病院からいなくなった。夏希は必死に彼女を探し続けていた。
この夫婦が、これほどまでに非道な人間だったとは。
三日も前に母を見つけていたのに、ずっと隠し通し、今ここで母を人質にとって彼女を脅す時まで、真実を明かそうとしなかったのだ。
「武藤雨音みたいな狂った女が、一人で外を彷徨うのは大変だろうね。 溺れたり、看板が頭の上に落ちてきたり、交通事故に遭ったりして、訳も分からず、あっけなく死んでしまうかもな
夏希、 あんたは母親が一番大事なんだろう? 私が居場所を教えてやれば、あんたが武藤雨音を引き取れるし、そうすれば、彼女は安全だ。武藤雨音は……」
「黙れ!」
夏希は冷たい声で玉蓮の言葉を遮った。
「私の母の名前を口にする資格は、あなたにはない!」
写真の中の母を見つめる彼女の眼差しは、ますます決然としたものに変わっていった。
「私……嫁ぐわ」
母が精神を病んで以来、この冷たい世界で温もりを感じたことは一度もなかった。
今、母は意識が朦朧としているとはいえ、自分を愛してくれた唯一の人間であり、この世で唯一の心の拠り所だった。
母のためなら、どんなことでもする。
***
六日後。
今日、夏希は大河家に嫁ぐ日だった。
縁起直しの婚礼ゆえ、すべては簡素に済まされた。
大河家では盛大な式は行われず、夕暮れ時になって一台の車が佐藤家に彼女を迎えに来ただけだった。
車が大河家の屋敷に到着した時には、すでに日は完全に暮れていた。
夏希は二人の女に直接、寝室へと連れて行かれた。
寝室には明かりが灯されておらず、祝いの蝋燭が一本だけ立てられ、その炎が風に揺れていた。
微かな蝋燭の灯りのなか、夏希は窓際の大きなベッドに、誰かが横たわっているのをぼんやりと認めた。身じろぎひとつせず、まるで死体のようだった。
この人が、自分の夫となる大河家の長男――大河翼に違いない。
「俺の花嫁が来たか」
死体が突然、口を開いた。
その声は冷たくも澄み渡り、王者のごとき圧倒的な気配を帯びて、人の心の芯まで響き渡る。夏希は、足が凍りついたように、その場に縫い止められた。
噂では、大河家の長男は一ヶ月前に突然奇病に襲われ、下半身不随となり、顔は醜く爛れて幽鬼のようになり、いつ急死してもおかしくない廃人と化したという。
廃人同然の男が、これほどまでに低く、耳に心地よい声を持っているとは——彼女は思いもしなかった。
「ベッドに来い」
その声が再び響いた。
夏希が反応する間もなく、柔らかくも強靭な何かが彼女の腰に絡みついた。
強い力で引き寄せられ、夏希は勢いよくベッドの上に叩きつけられた。
「きゃっ――」
痛みで叫びながら目を開けると、男が自分に覆いかぶさっているのが見えた。 まるで精巧に彫刻されたかのような美しい顔が彼女の上にあり、その冷たく深い瞳は二つの渦のようで、一目見ただけで吸い込まれてしまいそうだった。
「あなたは本当に……大河翼さんなの?」
彼女の呼吸はなぜか重くなり、声も思わず震えた。
大河家の長男は、醜い幽鬼のような顔だと聞いていたのに
まさか、部屋を間違えたのだろうか……
「俺だ」
男の声は冷たかった。
しかし、彼が吐き出す息は温かく熱く、誘惑的な春風のように夏希の柔らかな頬を撫でた。
夏希の心臓は、さらに激しく乱れた。
男は彼女を見つめ、その冷たい瞳の奥に、ある種の異様な光を宿していた。
彼が異様だと感じたのは、夏希の体から漂う香りだった。
それは極めて稀有な天然の体香で、まるで雪山の頂にだけ咲くという氷の蓮のように——清らかで淡く、それでいて、人の心の奥深くまで沁み透るようだった。
このような香りを、翼は七日前の夜に一度だけ嗅いだことがあった――
あの夜、彼が理性を失ったのは、薬のせいだけではなく、彼女の体から漂うこの誘惑的な香りのせいでもあった。
夏希が同じ香りをまとっているとは、彼は思いもしなかった。 ただ無意識に嗅いだだけで、あの夜の記憶が蘇り、あの少女を思うがままにしたいという、抑えきれない衝動が狂おしく押し寄せてきた……
(くそっ!)
ストイックな彼にとって、理性を失うこの感覚こそが、何より嫌悪すべきものだった。
翼は、その熱い感情を悟られないように収めた。
「俺たちは、以前に会ったことがあるか?」
夏希はそこでようやく我に返り、自分の顔がいつの間にか真っ赤になっていることに気づいた。 「いいえ……」
「本当に?」
彼は彼女の目を瞬きもせずに見つめ、その体から放たれる気配は夜のように深く冷たかった。
夏希は人に見られることを恐れたことはなかったが、今、彼に見つめられて、なぜか心が乱された。
「……うん」 彼女は無意識に視線を落としたが、彼の射抜くような視線は依然として感じられた。 そのせいで、ただでさえ熱い頬は、血が滲み出るほど赤くなった。
「……はい、間違いなく」
美しいものを目で追うのは、女の本能だ。
もし夏希がこれほどまでに美しく傑出した男性に会ったことがあれば、必ず何度も見返し、印象に残っているはずだ。
翼の瞳の色が、ふいに変わった。
「……そうか。ならば——痛いぞ。我慢しろ」
彼の顔はもともと夏希に非常に近かったが、その言葉が終わると、さらに彼女に顔を寄せた。 その輪郭の美しい唇が、一寸一寸と彼女の唇に近づいてくる。
夏希の心臓は、まず数拍、鼓動を止めた。
そして、次の瞬間、激しく狂ったように跳ね始めた。
けれど、翼の唇は彼女の唇すれすれのところでぴたりと止まり、そのまま、するりと下へ滑り降りて、彼女の首筋に深く埋められた。
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