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チャプター 2 第2章

―― 杉原真優 ――

陸斗の家をあとにした私は、その足で駅に向かった。

散らばった荷物のことなど、もう頭にはなかった。心は空っぽで、何も感じない。ただ、一刻も早くこの場所から離れたかった。

駅のホームで電車を待つ間、自分がどれだけ愚かだったかを思った。

何があっても陸斗は私のもとに戻ってくる——そう信じていた。彼の「真優がいないと無理だ」という言葉を、何度も反芻していた。

それは、ただの嘘だった。

彼にとって私は、都合の良い存在でしかなかったのだ。

卒業パーティーの案内が届いた時、一瞬ためらった。

しかし、もう彼と萌花の関係に臆する必要はない。そう決めて、出席することにした。

会場は華やかな空気で満たされていた。クラスメイトたちが楽しそうに談笑している。陸斗は萌花の隣に立ち、常に寄り添っていた。萌花は陸斗の腕にぴったりとくっつき、私を見るたびに勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

その光景に、もはや心は痛まなかった。すでに石のように固くなっていたから。

パーティーの終盤、「王様ゲーム」が始まった。

一本の棒を引き、王様が命令を出す。クラスメイトたちが盛り上がる中、陸斗が王様を引いた。

彼はニヤリと笑い、私の方を見た。

その視線には、明らかな悪意が込められていた。

「王様の命令! 〇番と△番、キスしろ!」

〇番は萌花。△番は陸斗自身だった。

クラスメイトたちがざわめく。「えー! マジかよ、陸斗!」茶々が飛んだ。

陸斗はもう一度私の方を一瞥してから、皆の前で萌花とキスをした。

萌花は嬉しそうに目をつむり、陸斗の首に腕を回す。

まるで映画のワンシーンのようだった。

会場が静まり返った。誰もが私の反応を窺っている。数人の女子が心配そうに私を見つめ、そのうちの一人——中学からの友人だった香澄——が、思わず「ひどい……」と呟いた。その声は、静かな会場にやけに響いた。

私はただ、そのキスを見つめていた。

心は氷のように冷え切り、何も感じない。痛みさえもなかった。陸斗への未練は、この瞬間に完全に断ち切られた。

彼が私に与えた最後の感情は、悲しみでも怒りでもなかった。

呆れだった。

私は静かに会場をあとにした。香澄が追いかけてこようとしたのを、軽く手を振って制した。もう、彼とは違う道を歩む。そう心に誓った。

年が明け、合格発表の日が来た。

私は九州大学に合格した。東大にも合格していた。陸斗も東大に合格。

両親に九大への進学を伝えると、最初は驚いた顔をした。しかし、私の固い決意を知ると、何も言わず受け入れてくれた。

「本当にそれでいいのね?」

母は一度だけそう尋ねた。私は黙って頷いた。それ以上、何も聞かれなかった。

その数日後、陸斗の東大合格を祝うパーティーが彼の家で開かれることになった。私の両親も招待されていた。

私は断りたかったが、両親に「最後だから」と説得され、渋々同行した。

たくさんの人が集まり、賑やかだった。陸斗は白いシャツを着て、いつも以上に輝いて見えた。萌花は彼の隣で親しげに腕を組んでいる。

私は彼らから目を逸らし、両親の隣に立っていた。

パーティーが中盤に差し掛かった頃、私は人混みと、絶えず耳に入る陸斗と萌花の笑い声に耐えきれなくなり、少し静かな場所を求めてリビングを抜け出した。階段のそばの廊下に出ると、壁に手をついて深く息を吐く。賑やかな笑い声が遠くに聞こえるこの場所だけが、ほんの少しだけ息ができた。

「真優」

背後から声がした。聞き慣れた、けれど今はもう遠く感じる声。振り返ると、陸斗が立っていた。少し苛立ったような表情で。

「お前、さっきからなんでそんな暗い顔してんだよ。せっかくの俺の祝いの場だろ」

私は何も言えなかった。彼の隣には、もう萌花という居場所がある。私が笑顔を作る理由なんて、どこにもなかった。

「ねえ、陸斗くん」

萌花が現れたのは、その時だった。彼女は私と陸斗の間に割って入るように立ち、陸斗の腕に自分の腕を絡める。

「なに話してるの? 真優さん、今日もずっと一人で寂しそうだね」

萌花の視線は、あからさまな嘲笑を含んでいた。彼女は私を一瞥すると、わざとらしく陸斗に寄り添い、耳元で何かを囁いた。陸斗が苦笑する。

私はその場を離れようとした。これ以上、二人の姿を見ていられなかった。

「あ、逃げるんだ」

萌花の声が背中に刺さる。無視して歩き出した私の腕を、突然、強い力が掴んだ。

陸斗だった。

「待てよ、話は終わってない」

「離して」

私は腕を振りほどこうとした。その勢いで体勢を崩した瞬間——

「真優、いい加減に——」

陸斗が苛立ちを込めて、私の肩を押した。

それは、突き飛ばすというより、半ば無意識の拒絶だったかもしれない。それでも、その一押しは、階段のすぐそばに立っていた私のバランスを完全に奪った。

視界が回る。足が空を切る感覚。誰かの短い悲鳴——それが自分の声だと気づく前に、背中と頭に激しい衝撃が走った。

鈍い音。全身を駆け抜ける痛み。目の前がチカチカと瞬き、天井の照明が歪んで見える。

「……いった……」

声にならない声が漏れた。体が動かない。頭を打ったせいか、耳の奥でキーンという音が鳴っている。

階段の上から、萌花の甲高い声が降ってきた。

「え、落ちたの? 大丈夫?」

けれど、その声に心配の色はない。むしろ、どこか呆れたような響きだった。

そして——陸斗の声。

「萌花、危ないから下がってろ。お前が来るな」

彼の腕は、萌花をかばうように彼女の肩を抱いていた。私の方を見下ろすその目には、動揺はあるものの、私に向けられるべき優しさは、かけらもなかった。

「真優、大丈夫か? ……いや、立てるなら、今日はもう帰れよ。空気悪くなるし」

帰れ。

その言葉が、痛む頭の中でゆっくりと反響した。

私はゆっくりと体を起こした。打ちつけた背中が痛む。足首も捻っているかもしれない。涙が一筋だけ、頬を伝った。

誰も、助け起こそうとはしなかった。陸斗は萌花の肩を抱いたまま。萌花はそんな陸斗の胸に顔を埋めて、かすかに笑っているように見えた。

その時、異変に気づいた母が廊下に飛び出してきた。

「真優!? どうしたの、その怪我……!」

母の悲鳴に近い声で、父も駆けつける。私が階段の下でうずくまっているのを見て、父の顔色が変わった。

「誰が……誰がこんなことを」

父が鋭い目で陸斗を睨む。陸斗は気まずそうに目を逸らし、萌花をかばう腕を解かなかった。萌花は「私、何もしてないですよ」と小さく言い、陸斗の胸に顔を押し付ける。

「……大丈夫、転んだだけだから」

私は震える声でそう言った。ここで騒ぎを大きくしたくなかった。両親にこれ以上悲しい思いをさせたくなかった。

母は私の腕を支えて立ち上がらせ、父は何か言いたげだったが、唇を引き結んだ。周囲には、騒ぎを聞きつけた客が集まり始めていた。陸斗の両親もやって来て、事情を聞こうとするが、父は「なんでもありません」とだけ言い、私を会場の隅の椅子に座らせた。

「真優、帰ろうか」と母が言ったが、私は首を振った。今ここで帰れば、陸斗の両親に気を遣わせ、余計に両親の立場が悪くなる。そう思って、「もう少しだけ、ここにいる」と答えた。

母は心配そうに私の手を握り、父は黙って私の背中に手を置いた。陸斗は萌花と共にリビングに戻っていった。彼が私を振り返ることは、一度もなかった。

その時だった。

突然、会場の一角で大きな音がした。照明機材が落下したのだ。

悲鳴。パニック。

陸斗は反射的に萌花をかばった。

落下物の一部が陸斗の頭と肩を直撃し、彼はその場に倒れ込んだ。血が滲む。萌花は無傷で、恐怖に震えながら陸斗に抱きついた。

「陸斗くん! しっかりして!」

彼女の悲鳴が響き渡る。

その時だった。父が、私の手をぐっと握りしめた。見上げると、父の顔は青ざめ、怒りに震えていた。

「……真優が階段から落ちた時も、あいつはこうだったのか」

父の声は低く、抑えきれない怒りが滲んでいた。母はすでに涙を浮かべ、唇を噛みしめている。

周りの客たちも、陸斗が萌花だけをかばい、すぐ隣にいた私には見向きもしなかった光景に、困惑した表情を浮かべていた。陸斗の父親は苦々しい顔で俯き、母親は何か言いたげに口を開きかけて——閉じた。

「もう、こんな場所にいる必要はない」

父は私の手を握ったまま、きっぱりと言った。母も深く頷く。

そのまま三人で会場をあとにした。誰も、私たちを引き止めなかった。

帰りの車の中、父が静かに言った。

「真優、よく今まで耐えたな」

その言葉に、初めて涙が溢れた。悲しみの涙ではなかった。ようやく理解してもらえた——その安堵の涙だった。

その夜、両親が静かに言った。

「真優、お父さんの会社が福岡に事業拡大することになったの。家族みんなで引っ越さない?」

両親は、私が陸斗から完全に離れられるように、そう提案してくれたのだ。

私はすぐに頷いた。もう、迷いはなかった。

四月——東京大学の入学式の日。

私は福岡にいた。

九州大学のキャンパスを歩いていた。制服を脱ぎ捨て、新しい服を着て、新しい街を歩く。

スマートフォンを取り出し、新しいInstagramのアカウントを作った。アイコンは福岡の空。プロフィールには一言——「新しい自分」。フォロワーはゼロ。誰にも知られない場所で、私だけの記録を始めようと思った。

最初の投稿は、九大の正門前で撮った写真。キャプションは、ただ一言。

「ここから、私の新しい人生が始まる。」

私の人生は、完全にリセットされた。

―― 滝口陸斗 ――

東京大学の入学式。

俺は真優の姿を探した。

式が始まる前から、式中も、何度も周りを見回した。あれほど東大に行きたがっていた真優が、どこにもいない。

パニックだった。まさか落ちたのか? いや、ありえない。真優は俺よりずっと真面目に勉強していた。合格通知も一緒に確認したはずだ。

式の途中でこっそりスマホを取り出し、真優にLINEを送った。「どこにいる?」——しかし、メッセージの横には既読がつかない。それどころか、送信エラーの表示が出ている。慌てて電話をかける。『現在使われておりません』のアナウンス。

手が震えた。Instagramを開き、真優のアカウントを検索する——見つからない。ブロックされているのか、アカウントごと消したのか。どちらにせよ、真優は俺との接点をすべて断っていた。

いてもたってもいられず、親に真優のことを聞いた。

父と母は気まずそうに顔を見合わせた。

「杉原さんが、九州大学に進学したそうだ」母が静かに言った。

「え? 九大? なんでだよ。東大に受かってたはずだろ」

「杉原さんの一家は、もう福岡に引っ越したらしい」父が続けた。

「引っ越した……?」

声が裏返った。父は苦い顔で続ける。

「陸斗、お前……あの合格祝いのパーティーで、真優ちゃんが階段から落ちた時、お前、天野さんしか見ていなかったそうだな。杉原さんのご両親が、相当怒っていた」

「ち、ちが……いや、でもあの時は萌花が——」

言い訳にならないことは、自分でもわかっていた。

母が、何かを決心したように顔を上げた。

「陸斗。杉原さんが引っ越したのはね……あのパーティーの翌日にはもう決まっていたのよ。真優ちゃんを、お前から遠ざけるためにね」

頭が真っ白になった。

真優が、家族ごと、俺の前から消えた。

彼女が俺の人生から完全に姿を消したことを知り、取り返しのつかない喪失をしたことに初めて気づいた。

あの時、俺は彼女の別れの言葉を「またか」と笑い飛ばした。彼女の不安を「メンヘラ」と決めつけた。ショートケーキのイチゴを萌花に食べさせた。卒業パーティーで萌花とキスをした。階段から落ちた真優を、一瞥もせず追い出した。――いや、違う。俺が、突き落としたんだ。

そのすべてが、真優を俺から遠ざけたのだ。

俺は、親の猛反対を押し切り、東大の入学を延期した。

そして福岡行きの新幹線に飛び乗った。

アパートを借り、科目等履修生として九州大学のキャンパスに潜り込んだ。

真優を探さなければ、俺の人生は終わる——そう思っていた。

「真優を追いかけると決めた。しかし、その先に待っていたのが、地獄のような後悔の日々だとは、まだ知らなかった。」