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チャプター 3 第3章

―― 杉原真優 ――

福岡での新生活は、私に新しい風を吹き込んだ。

九州大学のキャンパスは広大で、東京とは違う穏やかな空気が流れている。私は思い切ってダンスサークルに入った。幼い頃から体を動かすのは好きだったが、陸斗との関係の中で、いつの間にか自分の好きなことをする時間を失っていたのだ。

新しい仲間たちと出会い、ダンスに挑戦する日々。それは私の心を少しずつ癒していった。

Instagramのアカウントも、少しずつ成長していた。最初は誰も見ていなかったが、ダンスサークルの仲間がフォローしてくれ、練習風景や福岡の美しい景色を投稿するうちに、コメントがつくようになった。「真優ちゃんのダンス、すごく綺麗!」「私も福岡行ってみたい」。誰かの反応があることが、こんなに嬉しいなんて——ずっと忘れていた感覚だった。

サークルには、松江理人という先輩がいた。

理学部三年生で、サークルの代表を務めている。温和で知的、常に冷静沈着な人だった。

私がステップでつまづいていると、理人先輩は的確なアドバイスをくれた。決して過去を詮索することはない。私が困っている時だけ、絶妙なタイミングで手を差し伸べてくれる。

その距離感が、心地よかった。

陸斗とは全く違う。私を尊重し、静かに見守ってくれる人。

ある日、ダンススタジオの片隅で、私は理人先輩と二人きりになる機会があった。窓の外は雨だった。彼は何気なく、自分のスマホのロック画面を指で撫でていた。画面には——一人の女性の後ろ姿。彼女の手には、他の男性の手が重なっている。

「昔、好きな人がいたんです」理人先輩は突然、静かに口を開いた。「ずっと片思いで……でも、彼女には好きな人が別にいて。僕はただ、遠くから見ていることしかできなかった」

私は息を呑んだ。あの優しい距離感の裏に、そんな傷があったのか。

「それで、わかるんです。誰かを想う気持ちと、それが報われない苦しさが。杉原さんが何かを抱えているのは、なんとなく感じていました。でも、無理に聞き出そうとは思いません。だって、僕自身がそうだったから」

彼は微笑んだ。その笑顔には、自分自身の痛みを乗り越えた人が持つ、あたたかな強さがあった。

「大丈夫ですよ。無理しなくていい。ゆっくりでいいんです」

その言葉が、胸の奥にじんわりと染みた。

ある日の練習後、サークル棟の出口に見慣れた人影があった。

黒いマウンテンパーカー。壁にもたれかかる長身のシルエット。

陸斗だった。

心臓が冷たくなった。まさか、ここまで追いかけてくるなんて。

陸斗は私に気づくと、ゆっくりと近づいてきた。

「真優……」

声は昔と違って、どこか怯えたように震えていた。

私は何も言わず、理人先輩の後ろに下がった。

「杉原さん、何かあった?」

理人先輩はすぐに私の変化に気づき、陸斗との間に立った。

「どちら様ですか?」

穏やかだが、強い意志のこもった声だった。

陸斗は理人先輩を睨みつけた。

「俺は滝口陸斗。真優の……元彼だ」

理人先輩は眉一つ動かさない。

「そうですか。しかし、ここは大学の敷地内です。部外者が学生に付き纏うのは看過できません」

冷静に、しかし明確に、陸斗の干渉を遮断した。

陸斗は苛立った様子で私に歩み寄ろうとした。

「真優、話がある。頼む、俺の話を聞いてくれ」

私は陸斗の目を見た。そこには、以前の傲慢さはなく、ただ必死な懇願の感情だけがあった。

だが、私の心は氷のように冷たかった。彼の言葉は、もう届かない。

「あなたと話すことは何もありません」

声は自分でも驚くほど冷たかった。

陸斗は絶望したような顔をした。

理人先輩が私の腕をそっと取った。

「帰りましょう、杉原さん」

私たちは陸斗を置き去りにして、その場をあとにした。

翌日も、陸斗はキャンパスに現れた。

今度は、私がよく利用するカフェテリアの前に立っている。私は彼を避けるように別の入り口から入ったが、彼は私を見つけるとすぐに近づいてきた。

「真優、この手紙を読んでくれ」

白い封筒を差し出す。丁寧につづられた文字。

私は手紙を受け取らなかった。

「私には関係のないことです」

そう言って目を逸らす。

陸斗は諦めなかった。毎日、私の前に現れる。高価なプレゼントを置いていく。私の通る道で待ち伏せする。

その行動は、次第にストーカーじみていった。

ある日のランチタイム。

カフェテリアで理人先輩と食事をしていると、陸斗がまた現れた。私たちのテーブルに近づき、声をかけようとする。

その瞬間、理人先輩が陸斗の前にコーヒーカップを置いた。

「滝口さん。ここは学生が食事をする場所です。騒がしくするのはご遠慮ください」

静かな声だったが、その圧力は陸斗を圧倒した。

陸斗は何も言えず、その場を立ち去った。

理人先輩は私に優しい笑顔を向ける。

「気にしなくていいですよ、杉原さん」

その言葉が、心を温めた。

陸斗の執着はエスカレートしていった。

ついには、私のアパートの前にまで現れるようになった。深夜、部屋の明かりが消えるまで、ただそこに立っている。カーテンの隙間から彼の姿を見るたび、恐怖がこみ上げた。

それでも、私は警察に通報しなかった。彼はかつて、私が愛した人だったから。

週末、理人先輩とサークルの仲間たちと近所の公園でピクニックをした。

陸斗が遠くから私たちを見つめていた。

目には悲しみと、かすかな諦めの光が浮かんでいたが、彼は近づいてこなかった。

理人先輩が隣で穏やかに笑っている。私も彼にだけ見せる笑顔を返した。

その笑顔は——遠くの陸斗の心を、完全に打ち砕いたようだった。

その日の夜、私はInstagramにピクニックの写真を投稿した。満開の桜の下、サークルの仲間たちと囲むお弁当。私の隣には理人先輩——顔は写さなかったけれど、彼の肩がほんの少しだけフレームに入っていた。キャプションには「大切な仲間たち。福岡に来て、本当に良かった」。

その投稿に、数分後、香澄からコメントがついた。「真優、すごく幸せそう。安心したよ」。私は「ありがとう」とだけ返した。

―― 滝口陸斗 ――

真優の笑顔を見た瞬間、俺はすべてを悟った。

あの笑顔は、俺が知っている真優の笑顔ではなかった。

俺に向けられたことのない、穏やかで満たされた笑顔。

俺は、彼女の心を完全に壊し、手放してしまったのだ。

隣に立つ松江理人という男。彼は俺とは全く違うタイプだった。真優に、俺が与えられなかった「適度な距離感」と「尊重」を与えている。

俺が真優の愛情にあぐらをかいていた間に、彼女は俺のいない場所で新しい自分を見つけ、新しい人に出会っていた。

その夜、俺は偽名で作ったInstagramのアカウントから真優の投稿を見ていた。フォロワーが増えている。コメント欄には見知らぬ名前が並び、真優を応援している。彼女はもう、俺の知らない世界で、俺の知らない人たちに囲まれて生きている。

写真に写る彼女の笑顔は、どれも本当に幸せそうだった。俺と一緒にいた頃には決して見せなかった顔で、彼女は笑っていた。

そこまで考えて、俺はスマホを握り潰したくなった。違う——俺と一緒にいた頃、彼女もこうやって笑っていたはずだ。それを曇らせたのは、他でもない俺自身だった。

公園のピクニックのあと、俺はもう真優の前に現れるのをやめた。

しかし、その決断をした翌日——キャンパスで偶然、見知った顔とぶつかった。

高校のクラスメイトだった田中健太が、九大の構内を歩いていたのだ。彼は九大の法学部に進学していた。俺を認めると、彼の表情が曇った。

「滝口……お前、こんなところで何してるんだ」

「真優に会いに来た」

俺が正直に言うと、田中は信じられないものを見るような目をした。

「本気かよ。お前、真優に何をしたかわかってるのか? 卒業パーティーでのキスのことも、階段から突き落としたことも、クラスの連中はみんな知ってるんだぞ。お前と萌花が真優をどれだけ傷つけたか——なあ、まだ足りないのか? まだ真優を苦しめたいのか?」

一つ一つの言葉が、刃のように胸に突き刺さった。

「俺は……ただ、謝りたくて——」

「謝って許されると思ってるのかよ」田中は冷たく言い放った。「もう遅いんだよ、滝口。お前が自分で蒔いた種だ。自業自得だ」

田中はそれ以上何も言わず、背を向けて去っていった。

立ち尽くす俺の耳に、田中の最後の言葉がいつまでもこだましていた。

——自業自得だ。

反論できなかった。その通りだったからだ。

彼女に渡そうとした最後の手紙も、アパートに戻って破り捨てた。

意味がない。

もう、彼女の心は戻らない。俺がどんなに足掻いても、真優はもう俺の真優ではない。俺が自ら追い詰め、彼女の心を殺してしまったのだ。

取り返しのつかない喪失——この痛みは、一生消えないだろう。

俺は東大を正式に休学し、海外の大学への編入手続きを進めた。

この街にいても、真優の姿を探してしまう。彼女の幸せな顔を見るたび、自分の愚かさを思い知る。

自分から逃げるように、彼女のいない場所を選んだ。