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チャプター 3 結菜、怖がらなくていい

車内は、静まり返っていた。

最高級ロールス・ロイスの防音性は極めて高く、外の風の音や氷室邸の明かりを完全に遮断していた。

藤井結菜は色褪せたキャンバストートを握りしめ、ゆったりとした柔らかい革張りのシートに居心地悪そうに座っていた。 彼女はここに来てようやく、車内には養母の藤井典子だけでなく、見知らぬ若い男が座っていることに気がついた。

男は仕立ての良い純黒のオーダーメイドスーツを身に纏い、足を組んでいる。

車窓を流れる街灯の光が彼の横顔を照らし出す。それは非常に整った顔立ちで、眉の彫りが深く、鼻筋がすっと通っていた。

ただ静かに座っているだけなのに、上位に立つ者特有の冷酷で決断力に満ちたオーラを放っており、息が詰まるほどの威圧感だった。

普段はどれほど気性が荒い典子であっても、今は借りてきた猫のように、両手で服の裾を握りしめ、縮こまってドア側に身を寄せていた。

結菜が男をじっと見つめているのに気づき、典子は唾を飲み込むと、ぎこちなく口を開いて沈黙を破った。

「結菜……お母さんが紹介するわね」

典子は向かいの男を指さし、震える声で言った。「この方はね、あなたの実のお兄さん、宮崎誠一さんよ」

結菜の頭の中で、ガンッと鈍い音が鳴り響いた。

ーー実の兄?

彼女はその場に固まり、極度の衝撃で目をわずかに見開いたまま、呆然と目の前の男を見つめた。

物心ついた頃から、自分が典子に孤児院から引き取られた養子だと知っていた。

20余年もの間、彼女は実の親の姿を数え切れないほど想像してきた。しかし、実際にその日が訪れ、生身の「実の兄」がこうして突然現れ、目の前に座っている今、手足をどこに置けばいいのかすら分からなくなっていた。

狂喜はなく、ただ茫然とするばかりだった。

宮崎誠一は、呆然とする少女の姿や、真っ赤な目元、少し青ざめた顔色を見て、その深く黒い瞳に一瞬、痛みにも似た色が走った。

だが次の瞬間、少女の体がわずかに震えたことに気づく。

誠一は息を呑んだ。

(しまった。)

(妹を怖がらせてしまった。)

出発前、10年来の腹心である岩崎智也が、耳元で必死に訴えかけてきた言葉が脳裏に蘇る。

「誠一様!お嬢様を迎えに行く時は、そのマフィアのボスみたいな殺気を絶対に隠してくださいよ!絶対に冷たい顔をしちゃダメですからね!」

「普通の家庭のお兄ちゃんってのは、春の風みたいに爽やかなんです!普段、裏切り者を尋問する時みたいな目でお嬢様を見たら、逃げられちゃいますよ!」

宮崎家は雲川市で名を馳せた一族で、先祖は泣く子も黙る裏社会のドンである。今でこそ表の事業に転換しつつあるが、骨の髄まで染み込んだ冷酷さと血の匂いは簡単には消えなかった。

対面を前に、宮崎家の強面たちは家族会議を開き、全会一致でこう決議した。可愛い妹には、実家の裏社会という背景を絶対に知られてはならない!正体は必ず隠し通すこと!

妹が完全に家に戻り、家族としての絆が深まってから、機を見てゆっくりと打ち明けよう、と。

そこまで思い出し、誠一は即座に背筋をピンと伸ばした。

大きく深呼吸をして、顔の筋肉を総動員し、身の毛のよだつような眼光をすべて押し殺すと、自分としては最高に穏やかで優しいと思う笑顔を無理やり作り出した。

「結菜、怖がらなくていい」

誠一は話す速度を落とし、低く穏やかな声で続けた。「俺は長男の宮崎誠一だ」

結菜は明らかに少しこわばった男の笑顔を見たが、自分を見つめるその目には、恐る恐る機嫌を伺うような色と期待が隠されていた。

「あなたが……本当に私の、お兄さん?」

結菜は少し掠れた声を出し、指先を手のひらに食い込ませた。「でも、私はもう20年以上も行方不明だったんですよ。世の中には似ている人がたくさんいるのに、人違いじゃありませんか?」 「私、証拠になるような物も何も持っていないし……」

「絶対に間違いない」

誠一は確信に満ちた眼差しで、懐から書類を取り出して差し出した。「これはDNA鑑定の報告書だ。 それに、お前の左肩の肩甲骨の下には、硬貨くらいの大きさの赤い痣がある。そうだろう?」

結菜はビクッと体を震わせた。

その痣のことは、自分と養母以外、誰一人として知るはずがないのだ!

報告書に太字で印字された「実の血縁関係を認める」という黒い文字が、彼女の目に強烈に飛び込んできた。

長年抱えてきた理不尽さや戸惑い、そして氷室晴斗から受けた骨の髄まで凍りつくような冷たさが、この瞬間、血は水よりも濃いという暖かな波に押し流され、粉々に打ち砕かれた。

彼女は本当に、本当の家族を見つけたのだ。

誰からも必要とされない雑草なんかじゃない。自分にも家ができたのだ。

結菜は何度も深呼吸をして、喉の奥から込み上げる熱いものを必死にこらえ、ようやくこの事実を受け入れた。

彼女は顔を上げ、未だに少し遠慮がちにキャンバストートの紐を握りしめながら、小さな声で尋ねた。「誠一兄さん、じゃあ、お父さんとお母さんは? 今日はどうして来ていないの?」

その甘く柔らかな「誠一兄さん」という呼び声を聞いた瞬間、誠一の心臓は激しく震え、危うく銃を抜いて空に向けて2発ほど祝砲を撃ちたくなった。

だが、彼はそれをぐっとこらえた。

「母さんはずっと体が弱くてね。昔、お前を失ったことで心を病んでしまい、長旅には耐えられないんだ。 父さんは雲川市に残って、つきっきりで看病している」

誠一の眼差しは滴るほどに優しかった。「本当は命に代えても来ると言って聞かなかったんだが、俺が止めたんだ。 俺が先に迎えに来た。二番目の兄貴と三番目の兄貴は今日、地方で仕事があってね。明日の朝一番で、お前に会いに飛んでくるはずだ」

「他にもお兄さんがいるの?」結菜は少し驚いた。

「ああ。お前の上には3人の兄がいて、お前は家で一番末っ子の女の子なんだ」

誠一は彼女を見つめ、隠しきれないほどの愛おしさがこもった眼差しを向けた。

結菜は頷き、心の中の不安が少しだけ和らいだ。彼女は少し躊躇いながらも、周囲の度が過ぎるほど豪華なロールス・ロイスの車列を見て、たまらず尋ねた。

「誠一兄さん、うちの家って、何をしているの?」

こんな大仰な陣容、常識を超えている。あの氷室晴斗が外出する時でさえ、これほど大げさなことはなかった。

誠一のまぶたがピクリと動いた。

(来た。 アシスタントが予想していたお約束の質問が来たぞ。)

彼は軽く咳払いをして、顔色一つ変えずに嘘をついた。「大したことじゃない。実家でちょっとした商売をしてるだけだ」

結菜:「ちょっとした商売?」

「ああ、ちょっとした商売だ」

誠一は大真面目な顔でデタラメを並べ立てた。「家で小さな会社をやっててね。俺は普段、会社の雑用を任されてるんだ。 今年は運が良くて、少しばかり儲かったから、お前を迎えに来るのにみすぼらしい真似はできないと思って、車を何台か借りたってわけさ」

そう言いながら、彼は設定をさらに補足した。「二番目の兄は病院に勤めていて、医者をやってる。 三番目の兄は法律事務所で働いてる弁護士だ。うちはそこそこ裕福な方だから、お前が負担に思う必要はまったくない」

隣に座っていた典子はそれを聞いて、大きく安堵の息をついた。

ーー商売をしている裕福な家庭だったのか。それならよかった、本当によかった!

典子は胸を撫で下ろし、心底ほっとした顔で結菜の手を握った。「結菜、母さんは今、本当に安心したわ。あの時、色んな反対を押し切って、命がけであなたをあの貴族学校に入れて、氷室晴斗と一緒に勉強させた甲斐があったわ。ピアノだけじゃなく、4か国語も身につけられたんだもの」

「母さんは家政婦だけど、あなたを何も知らない粗野な娘には育てなかったわ。 今のあなたの身のこなしや気品なら、宮崎家に戻っても絶対に実家の恥にはならない。それだけ胸を張れる特技があれば、誰もあなたを見下したりできないわ!」

養母の言葉を聞き、結菜は胸が熱くなり、典子の手を強く握り返した。「お母さん、私がどこの家に戻ろうと、あなたは永遠に私のお母さんよ。それは誰にも変えられないわ」

その向かい側。

誠一は母娘の会話を聞きながら、気づかれないように眉をひそめていた。

(氷室晴斗?)

その名前は、雲川市の情報網で見たことがあった。

(東都にある氷室家の、あの分際をわきまえない若造のことか?)

誠一の視線がゆっくりと下へ移動し、結菜の少し赤く腫れたふくらはぎに留まった。それは先ほど、氷室美智子にスーツケースで激しく叩きつけられてできた痣だった。

さらに結菜の真っ赤な目元と、安っぽくて哀れなキャンバストートを見る。

誠一の顔にあった穏やかな偽装は、ほとんど一瞬にして崩れ去り、裏社会のドンとしての凶暴な殺気が、抑えきれずに骨の髄から滲み出した。

車内の温度が急激に氷点下まで下がったように感じられた。

「結菜」

誠一は恐ろしいほどに沈んだ瞳で、遠ざかる氷室邸の方向を睨みつけ、地獄から這い出てきた修羅のような声で言った。「さっき、奴らがお前を追い出したのか?」

男の拳はギリギリと音を立て、脳内にはすでに、晴斗を川に沈め、氷室邸を更地にするための百通りの計画が閃いていた。

妹が一度でも頷きさえすれば、 今夜、東都の氷室家は、この世から消えてなくなる!

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全134章

  1. 第1章チャプター 1 離婚協議書
  2. 第2章チャプター 2 突然現れた実の兄
  3. 第3章チャプター 3 結菜、怖がらなくていい

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