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チャプター 2 突然現れた実の兄

「私は謝らない」

藤井結菜は背筋を真っ直ぐに伸ばし、体の脇に下ろした両手を微かに震わせながらも、頑なな瞳で二人を睨みつけた。「私は彼女を押してなんかない。自分で転んだだけよ。 私に謝る理由なんて、どこにもない!」

「晴斗、藤井さんを責めないで……」

宮崎美緒は晴斗のシャツの裾をギュッと握りしめ、目元を赤く染めた。「私がちゃんと立っていられなかっただけ。私の足はもうダメだし、足手まといなのよ。まともに立つことすらできないんだから……。藤井さんは関係ないわ。彼女に謝罪を強要しないで。これ以上二人が喧嘩になるのは見たくないの……」

一歩引いたように見せかけるその言葉は、一言一言が晴斗の急所を抉っていた。

なぜなら、美緒の足が、彼を庇って二度と元に戻らなくなったからだ

晴斗の纏う空気が一瞬で凍りつく。彼は顔を上げ、結菜を見据える黒い瞳には、失望と嫌悪が渦巻いていた。

「結菜、お前は本当に昔からちっとも変わらないな」

彼の低く沈んだ声は、冷たい刃のように容赦なく突き刺さってきた。

「3年前とまるで変わってないわ!厚かましくて、過ちを犯しても、絶っ対に認めようとしない!」

結菜は息を呑んだ。

見えない大きな手に心臓を鷲掴みにされたかのように、呼吸すら忘れるほどの痛みが走る。

結婚生活、3年。密かな想い、10年。

晴斗の心の中で、彼女はそんなにも陰湿で悪辣な、非を認めない悪女だったのだ。

美緒は晴斗の胸に顔を埋め、彼の死角を利用して、こっそりと得意げな冷笑を浮かべた。

こんな取るに足らない馬鹿な女が、氷室家の若奥様の座を私から奪おうなんて身の程知らずもいいところね。

「ガチャン!」

廊下の向こうから大きな音が響いた。

姑の氷室美智子がスーツケースを引きずりながら出てきて、ちょうど美緒が晴斗の腕の中で泣いている光景を目にし、途端に頭に血が上った。

「よくもやってくれたわね、結菜!この疫病神が!」

美智子は結菜の鼻先に指を突きつけ、口汚く罵った。「美緒ちゃんは晴斗の命の恩人なのよ!初対面でこんな酷い真似をするなんて! あんたの腹の中はどれだけ真っ黒なの!あの時も恥知らずにも晴斗のベッドに潜り込むなんて卑劣な真似をして、無理やり結婚に持ち込んだわけだわ!」

「母さん、もういい」晴斗は眉をひそめた。

けれど、「ベッドに潜り込む」というその言葉だけは、結菜にとって絶対に踏み越えてはならない一線だった

「私は彼のベッドに潜り込んだんじゃない!!」

結菜は我慢の限界に達し、目を真っ赤にして声を張り上げ、晴斗の目を真っ直ぐに睨みつけた。「最後に一度だけはっきりさせておくわ。3年前のあの夜、誰かが私の飲み物に薬を入れたのよ! あの部屋にいたのがあなただなんて全く知らなかったし、あんな方法で結婚を迫ろうなんて一度も思ったことはない!」

「いい加減にしろ!」

晴斗は声を荒らげて彼女の言葉を遮った。その目には苛立ちと焦燥が満ちている。

「結菜、その薬を盛られたという言い訳は、3年前にもう聞き飽きた」

彼は冷ややかな視線を彼女に向け、まるで滑稽なピエロでも見るかのようだった。「今更そんな昔話を蒸し返しても、お前に対する嫌悪感が増すだけだ」

結菜は全身を強張らせた。

骨の髄まで凍りつくような寒気が足元から頭のてっぺんまで駆け抜け、彼女に僅かに残っていた自尊心を粉々に打ち砕いた。

そう、彼は信じていない。

10年に及ぶ幼馴染としての情も、結局は他人の適当な言葉には敵わなかったのだ。

「まだそこで突っ立って何してるのよ!」

美智子は晴斗が怒っているのを見て、すかさず手にしていたスーツケースを力任せに結菜に向かって投げつけた。

「ドンッ」という音と共にスーツケースが結菜のふくらはぎに直撃し、彼女は大きくよろめいた。中から数着の古い服が散乱し、その光景はあまりにも惨めだった。

「サインしたなら、さっさとそのガラクタを持って氷室家から出て行きなさい!これ以上うちの敷地を汚さないで!」美智子は心底見下した顔で吐き捨てた。

結菜は床に落ちた服には目もくれなかった。

彼女はゆっくりと背筋を伸ばし、美智子を一瞥した後、氷のように冷酷な晴斗の顔に視線を移した。

これ以上の絶望はない。心は、とうに死んでいた。

「氷室晴斗、覚えておいて」

結菜の口調は突然、波一つ立たない水面のように底知れず穏やかなものになった。「やっていないことを、私は絶対に認めない。 一生、あなたにも彼女にも謝らないから」

そう言い残し、床の服を拾おうともせず、色褪せたお気に入りのキャンバストートだけを手に取ると、一度も振り返ることなく階段を降りて行った。

晴斗は彼女の決然とした後ろ姿を見つめながら、なぜか心臓が大きく跳ねたように感じた。瞬時に眉をひそめ、言い知れぬ焦燥感が込み上げてくる。

***

屋敷の門の外。

夜風が少し肌寒い。

結菜が門を出ると、氷室家の広々とした私道に、なんと真っ黒なロールス・ロイス・ファントムがずらりと一列に停まっているではないか!

この圧巻の光景は、氷室家の全盛期でさえ、目にしたことがないものだった。

中央に停まっている一番大きな車のドアが開き、見慣れた人影が慌てて降りてきた。

「結菜!」

養母の藤井典子が早足で駆け寄ってきた。

街灯の光に照らされた結菜の蒼白な顔と真っ赤な目元を見るなり、典子の顔色が一変した。

「氷室家のろくでなしどもに虐められたのね? !」

典子は怒りのあまり歯を食いしばり、踵を返して氷室家の別荘に怒鳴り込もうとした。「ふざけるんじゃないわよ、私の娘を好き勝手にできると思ってるの! 今日は何があっても乗り込んで、美智子あのクソババアの口を裂いてやるんだから!」

「お母さん、行かないで!」

結菜は慌てて典子の手首を掴み、込み上げる涙を必死に堪えて首を振った。

「もう晴斗とは離婚協議書にサインしたの」

結菜は静かに言い、その声には深い疲労が滲んでいた。「これから先、私と氷室家は一切関わりがないわ。 お母さん、あんな人たちのために怒る必要なんてない。意味がないわ」

これ以上、養母に理不尽な思いをさせたくなかったし、何より氷室家の連中に自分たち母娘を笑い者にしてほしくなかった。

典子は「離婚」という言葉に一瞬きょとんとしたが、すぐに声を張り上げた。「別れて正解よ!あんな見る目のないクズ男なんて、私の可愛い娘にはふさわしくないわ!」

結菜はそれには答えず、典子の背後に並ぶ最高級車の列に視線を移した。「お母さん、この車……いったいどういうこと? さっき電話で、私の実のお兄さんが尋ねてきたって言ってたけど?」

彼女は孤児で、幼い頃から典子に引き取られて育った。

20余年も経って、どうして突然実の兄が現れるというのだろうか?

それに、この物々しい様子を見る限り、相手はただ者じゃないはずだ。

典子は結菜の手を握り返し、ため息をつくと、彼女を車の方へと引っ張った。

「ここは話をする場所じゃないわ。とりあえず車に乗りなさい。一言二言じゃ説明しきれないから、乗ってからゆっくり話すわね」

結菜は疑問でいっぱいだったが、大人しく典子に続いてロールス・ロイスの後部座席に乗り込んだ。

ドアが閉まる寸前のことだった。

邸の門が開き、美緒を落ち着かせた晴斗が、母親の美智子に続いて出てきた。

美智子は結菜が後悔して戻ってくるのではないかと心配し、二度と敷地に入れないよう警備員に命じるために出てきたのだ。しかし門を出るなり、結菜と典子がナンバープレートが『わ 1』のロールス・ロイスに乗り込むのを目撃してしまった。

ドアが「バン」と閉まり、車列は堂々たる威容を放ちながら出発して行った。

美智子は目を丸くし、顔を歪めた。

「今日に限ってあっさりとサインしたと思ったら、なるほど、次のパトロンを見つけていたのね!」

美智子は鼻で笑い、晴斗の方を向いて言った。「晴斗、見たでしょ。典子みたいな元家政婦は、何年経っても娘を売って金に群がるような卑しい根性が抜けないのよ! どうせ結菜をどこかの金持ちのジジイの愛人にでも売り飛ばしたに決まってるわ。まさにこの親にしてこの子ありね、虫唾が走る!」

晴斗は遠ざかる高級車の列をじっと睨みつけ、その顔色は見たことがないほど険しくなっていた。

あれはただのロールス・ロイスではない。

あのナンバープレートが示す権力は、今の氷室家でさえも一目置かざるを得ないレベルなのだ。

ーーあいつはいったい誰に取り入ったんだ?

耳元で延々と続く母親の罵倒を聞きながら、晴斗の心の底で嫉妬の炎がメラメラと燃え上がっていた。

「もういい!」

晴斗は低く怒鳴りつけた。その声は恐ろしいほど冷たかった。

息子に怒鳴られ、美智子はいかにも不満げで理不尽だと言わんばかりの表情を浮かべた。「なんで私に八つ当たりするのよ? 私が何か間違ったこと言った……?」

晴斗は全く取り合わず、苛立たしげにネクタイを引っ張ると、踵を返して大股で別荘の中へ戻っていった。

取り残された美智子は怒りで地団駄を踏んだ。

一方、その頃。

2階のバルコニーでカーテンの陰に立っていた美緒は、考え深げな表情で車列が消えた方向を見つめていた。

先ほど結菜が車に乗り込んだ瞬間、車内のセンサーライトが点灯した。

美緒は後部座席にもう一人、男が座っているのをぼんやりとだが垣間見たのだ。

その男の横顔は彫りが深く鋭利で、人の上に立つ者特有の冷徹で果断なオーラを放っており、雲川市にいる彼女の義兄――宮崎誠一にそっくりだったのだ!

しかしその考えが浮かんだ途端、美緒は自らそれを打ち消した。

(まさか、あり得ない。)

宮崎家は雲川市にある。

兄の誠一がこの街に来たことなど一度もないはずだ。

結菜みたいな家政婦に育てられた卑しい女が、宮崎家の靴持ちにすらなれるわけがないのに、関わりがあるはずがない。

「きっと私の見間違いね……」

美緒は独り言のように呟いて首を振ると、再び口元に得意げな笑みを浮かべた。

(あいつが誰の車に乗ろうが知ったことではない。結菜という目障りな女さえ消えれば、氷室家の若奥様の座は、私、宮崎美緒のものに決まっているのだから!)

続きを読みますか?

読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全134章

  1. 第1章チャプター 1 離婚協議書
  2. 第2章チャプター 2 突然現れた実の兄
  3. 第3章チャプター 3 結菜、怖がらなくていい

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