メインコンテンツへスキップ

チャプター 3 それでも、夫は彼女を信じない

流星は倒れかけたみのりを抱きとめ、そのまま寝室へ駆け込んだ。 さっきまで冷たく整っていた顔から、余裕が消えている。腕の中のみのりは驚くほど軽く、頬は血の気を失っていた。 ベッドに寝かせる手つきだけは、いつもの彼らしく正確だった。けれど、その指先はわずかに強ばっている。 流星はみのりの袖をそっとめくった。 白い肌に残る傷。その上に、赤い血がにじんでいる。 彼の眉間に、深いしわが刻まれた。 「医者を呼べ。今すぐにだ」 「かしこまりました」 執事が慌ただしく部屋を出ていく。 ドアのそばで、紗織は固まったように立っていた。ほんの少し遅れて、数歩前に出ていつもの優しい顔を作る。 「流星……みのりさん大丈夫?さっきはすごく取り乱してたみたいだけど……」 流星は紗織を見なかった。 「帰ってくれ」 低く、冷たい声だった。 紗織の笑みが一瞬だけ止まる。 「でも……さっきは明らかにみのりさんから私を挑発したのよ」 「私は帰れと言ったんだ。みのりが目を覚ましたら、きちんと説明する」 その言葉に、紗織の顔から柔らかさが消えた。 けれど次の瞬間には、彼女はうつむき、しおらしい声を出す。 「……ごめんなさい。本当にごめんなさい。私、余計なことしちゃった……」 流星はもう答えなかった。 ただ、みのりの肩に毛布をかけ直す。その手つきは、さっき彼女の手首を掴んだ男とは別人のように丁寧だった。 紗織は流星のそばに立ったまま、笑顔を浮かべていた。けれど、瞳は冷たく変わっていく。 流星……みのりが笘原の妻である限り、あなたは絶対に割り切らない。 だったらいいわ。 みのりをもっともっと暴れさせて、狂わせて、あなたの口からこの女に離婚届を突きつけさせてやる。 何も答えようとしない流星を見て、紗織は静かに部屋を出ていった。 やがて医師が診察を終え、聴診器を片付けた。 「幸いにも、病状は安定しています。過度の精神的ストレスと古傷の悪化が重なっただけかと思われます。ゆっくり休めば、回復するでしょう」 医師が部屋を出ると、静けさが戻った。 流星はベッドの端に座り、みのりの冷たい手を無意識に握りしめていた。 なぜ、傷が治っていないことを黙っていた。 そしてなぜ、あんなふうに、まるで他人を見るような目で私を見るのか。 答えのない問いだけが胸の奥に沈んでいく。 やがて、みのりのまぶたがゆっくり震えた。 「……笘原く……さん、まだいたの」 弱々しい声。けれど、その目ははっきりと冷たかった。 流星は一瞬、言葉を失う。 「結局、また全部私のせいだとでも思ってるの」 「私は……」 「私は嘘で、丸山さんは全部正しいんでしょだったら、早く彼女のところに行けばいいのに」 流星の表情が硬くなる。 「なんでもかんでも紗織に結びつけるな。彼女は何も悪くない」 まただ。 みのりの胸の奥で、何かがぷつんと切れた。 「じゃあ聞くけど。前に一体何があったの私、何か悪いことをしたの」 流星は無言のまま身を乗り出し、ベッドに手をついた。二人の距離が一気に縮まる。 みのりは布団の端を握りしめた。距離が近くて胸がどきりとしたけれど、傷の痛みで逃げることもできない。 「紗織のブランドコスメの新作発表会の場で、君は紗織に平手打ちをして、彼女を私の浮気相手だと決めつけ中傷した。マスコミはスキャンダルとしてそれを取り上げ、彼女の女優としてのイメージも、コスメのブランドイメージも地に落ちた。それでも君はまだ自分が被害者のつもりなのか」 何それ。 そんなこと、本当に私が まさか、嫉妬で暴力なんて。そんな卑劣なことをするなんて、信じられない。 たとえ記憶がなくても、それだけは自分じゃないって分かる。 でも笘原くんは。 私の夫なのに、私を信じてくれないんだ。 全部、丸山さんの肩ばかり持って。 みのりは鼻で笑い、勢いよく流星の腕を押しのけた。 「笘原さん。次に丸山さんの味方をしたら、あなたはみのりの夫って肩書を失うことになるわよ」 流星の目が、かすかに揺れた。 けれどみのりは、もう流星を見なかった。 「はあ!お前、記憶なくしたの!じゃあ俺は俺のことは覚えてるのか」 翌日の昼。 自然光が差し込む街角のカフェに、北川空の声が響いた。 隣の席の客が驚いて振り返る。みのりは慌てて人差し指を唇に当てた。 「ちょ、声大きいってば!」 「いや、大きくもなるだろ!」 「なくなったのは五年分だけ。全部忘れたわけじゃないよ。だいたい空なんて、六歳の頃までまともにしゃべれてなかったアホじゃん」 「ひどすぎだろ!」 「っていうか、五年分?まるっとドラマじゃん!」 空はテーブルに身を乗り出し、みのりの顔をまじまじと覗き込んだ。 落ち着きがない。声も大きい。驚くとすぐ顔に出る。 けれど、その遠慮のなさが不思議と嫌ではなかった。 北川空。 みのりにとっては、幼なじみのような存在だったらしい。 らしい、というのは、今の彼女には二十三歳までの五年間の記憶がないからだ。けれど空の軽い口調と、何でもそのまま口にしてしまうところは、なぜか懐かしかった。 ふいに、遠い記憶が胸の奥で揺れる。 小学生の頃、雨上がりの公園で転んだみのりに、空が半泣きで駆け寄ってきた。 「泣くなよ、みのり!ほら、俺の絆創膏やるから!」 そう言いながら、彼はなぜか自分の膝にも同じ絆創膏を貼っていた。 「なんで空まで貼ってるの」 「おそろいの方が強そうだろ!」 あのとき、みのりは泣きながら笑った。 昔から、空はそういう人だった。 ちょっと騒がしくて、少し抜けていて、でも人の痛みに気づくのだけは早い。 だからだろうか。 笘原家にいる時より、ここでは少しだけ息がしやすい。 空はコーヒーを一口飲み、まだ信じられないという顔で首を振った。 「でその状態で、お前、天下の笘原流星にそんなこと言い返したの」「ほんと、その時の笘原くんの顔、空にも見せたかったよ」 「いや、見たかったけどさ。お前、強くなりすぎだろ。前より……」みのりはストローをくるくる回しながら、むっと唇を尖らせた。 「強くなったっていうか、今の私は十八歳のつもりなんだけど」 「だから余計怖いんだよ。十八歳のみのり、こんなに口が回ったっけ」 「失礼な」 軽口を交わしているうちに、空はふっと笑みを消した。 「でもさ。お前、昔はそんな性格じゃなかったのに、なんか変わったよな。これまでずっとアイツに言われるがままの、かわいいお嫁さんだったろ」 「冗談やめて。誰がかわいいお嫁さんよ」 「よく言うよ。結婚してから、アイツが俺のこと気に入らないってだけで、俺の電話もメッセージもSNSも全部ブロックして、友達も結構切ってきたじゃん。俺たち、幼なじみだぞ全く、結婚ってのは恐ろしいね」 スプーンが、みのりの指先から落ちた。 小さな音が、テーブルに響く。 「私、本当にそんなことしてきたの」 空は笑わなかった。 「したよ。俺たち一年ぶりの再会だぜ今日もお前から誘ってきた時、やっと目が覚めたのかって思ったんだ」 一年。 友達を切った。 流星のために? それとも、流星に嫌われたくなくて… 胸の奥が、じわじわと苦しくなる。 二十三歳の私、いったいどれだけ自分をなくしてたの。

現在読めるのはここまでです。

読み進めると物語が続きます。

続きを読む

章一覧

全40章

  1. 第1章チャプター 1 目が覚めたら、笘原夫人
  2. 第2章チャプター 2 同じベッド、遠い背中
  3. 第3章チャプター 3 それでも、夫は彼女を信じない

新着