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チャプター 1 目が覚めたら、笘原夫人

消毒液の匂いがした。 まぶたの裏が白くにじみ、耳の奥で機械の電子音が規則正しく鳴っている。笘原みのりは、重たいまぶたをゆっくり持ち上げた。 知らない天井。 知らない病室。 額に巻かれた包帯がずきりと痛み、みのりは思わず息をのむ。 「 ……ここ、どこ 」 かすれた声が自分のものだと気づくまで、 少し時間がかかった。 ベッドのそばでは、医者 ・高野弘がカルテを閉 じていた。その横では、秘書 ・西田が電話をかけている。 「社長、奥様が交通事故に遭われまして、現在病院に……」 奥様。 みのりは、ぼんやりした頭でその言葉を拾った。 誰のことだろう。 電話の向こうから、低く冷えた男の声が聞こえた。 「命に別状は 」 西田が慌てて答える。 「はい。 意識も戻られました」 「ならいい。病院には最善を尽くさせろ。私は忙しい」 ぷつり、と通話が切れた。 たったそれだけだった。 心配する声も、急いで来る気配もない。まるで、壊れた備品の報告を受けただけのような冷たさだった。 西田はスマートフォンを下ろし、みのりをちらりと見る。その目には、同情ではなく、うんざりしたような色が浮かんでいた。 「笘原夫人、とぼけても無駄ですよ。仮に本当に怪我をしたとしても、社長はあなたなんかに見向きもしませんから」 「とまはら……夫人?」 みのりは聞き返した。 その響きに、胸の奥がざわついた。 笘原。 彼女が知っている笘原といえば、一人しかいない。 高校の教室で、いつも窓際の席に座っていた少年。誰に対してもクールで、近寄りがたいほど綺麗な横顔をしていた同級生。 笘原流星。 けれど、どうして自分がその名前で呼ばれるのか、まったく分からなかった。 高野弘がため息をつく。 「みのりさん。流星の先輩として忠告しておきます。こういう騒ぎは、もうやめた方がいい」 「騒ぎ」 「流星さんは、日本国内が注目する笘原グループの後継者です。毎日分刻みのスケジュールで働いているんですよ。社長夫人だからといって、月に何度も生きるだの死ぬだのと騒ぐような女性を、彼が愛し続けられると思いますか」 言葉の意味が、ひとつも頭に入ってこない。 社長夫人?! 笘原グルー プ ! どういう …… こ と みのりは痛む頭を押さえた。 「待って。私、何も覚えてない。あなたは誰?流星って、笘原くんのことそれに、社長夫人って何?」 高野弘の表情が、 わずかに固ま っ た。 「……本気で言っているんですか」 みのりは答えられなかった。 本気も何も、分からないものは分からない。 彼らが病室を出ていったあと、部屋は急に静かになった。みのりは震える手で枕元のスマートフォンに触れる。画面が自然に明るくなり、顔認証でロックが外れた。 「え……」 見覚えのない端末。けれど、そこに映った待ち受けには、自分の顔があった。 大人びた髪型。 少し疲れた目元。 自分なのに、自分ではない女。 みのりは慌てて日付を確認した。 画面に表示された日付を見た瞬間、喉が詰まった。 「ええええええ ! 2025年???」 「うそ……私、まだ十八歳のはずなのに……」 そのとき、通知欄にひとつの名前が浮かんだ。 笘原流星。 メッセージは一行だけだった。 ――家に戻れ。 話はそれからだ。 家。 誰の家だろう。 みのりはスマートフォンを握りしめたまま、 白い病室の中で動けなくなった。 自分は五年の記憶を失っている。 そして、どうやら彼女は。 高校時代に片思いしていた笘原流星の、妻になっていた。 黒の高級車が、ゆっくりと速度を落とした。 窓の外に現れたのは、映画に出てくるような大きな門だった。ロートアイアンの電動ゲートの向こうには、手入れの行き届いた庭と、まっすぐ奥へ続く広い車道が見える。車寄せだけで普通の一軒家が建ちそう で、駐車スペー スも六台は余裕で停められそう だった。 運転手が静かに振り返る。 「到着いたしました。奥様」 また、その呼び方。 みのりは反射的に肩をすくめた。 「お、奥様……」 車を降りた瞬間、夜風が頬を撫でた。目の前にそびえる邸宅を見上げ、みのりは思わず口を開けたまま固まる。 「……これが、流星が言ってた家?」 どうして私が笘原さんと一緒に住んでるの というか、これ本当に家?お城じゃなくて みのりの頭の中で、つっこみが渋滞した。 笘原家の邸宅は、彼女が知っている「家」とはまるで違っていた。天井の高い廊下。音を吸い込むような絨毯。 壁に並ぶ高価な絵画。どれも完璧に整えられているのに、みのりには息苦しい檻のように感じられた。 案内された部屋のクローゼットを開けると、見たこともないブラン ドの服がずらりと並んでいた。バッグも靴も、雑誌の中でしか見たことのないものばかりだ。 けれど今は、ときめく余裕なんてない。 ここにあるものは全部、二十三歳の「笘原みのり」のものだ。 「二十三歳の私、 いったい何をどうしたらこんな生活になるの…… 」 小さくつぶやいた、 そのとき。 ガチャ、とドアが開いた。 みのりは反射的に振り向き、息を止めた。 そこに立っていたのは、記憶の中の少年とはまるで別人のように、大人びた笘原流星だった。 漆黒のスーツに包まれた長身。感情を映さない切れ長の瞳。整いすぎた横顔は、近づく者を拒むような冷たさを帯びている。 その瞬間、あの日へと遡る。 ――教室の前に立ち、眩しい陽の光の中で流星を見つめる高校時代のみのり。 窓から差し込む光を背に受けた流星は、まるでそこだけ切り取られたみたいに綺麗だった。制服の白いシャツが光を含み、伏せたまつげの影まで絵になる。 あのときのみのりは、ただ彼を見ているだけで胸がキュンって鳴っている。 目が合ったらどうしよう。 いや、合ってほしい。 でも本当に合ったら、たぶん心臓がもたない。 そんなことを考えながら、ノートの端に小さく「笘原」と書いて、慌てて消した。 ――現在。 かっこいい。 悔しいけれど、やっぱりかっこいい。 でも、だからって何? 今の彼は、あの陽だまりの中にいた少年とは違う。 「笘原くん……」 彼の名前を思わず呼んでいた。 流星の眉がかすかに動く。 「その呼び方はやめろ」 低く、短い声。 たったそれだけで、 淡い記憶に冷たい水を浴びせられたようだった。 「怪我は大したことないと聞いた。なら、これ以上騒がないでくれ。こっちも忙しい」 「騒ぐって……」 みのりは額の包帯に触れた。まだ痛む。身体のあちこちも重く、立っているだけで息が浅くなる。 怪我は大したことないって、笘原くんにはこのぐるぐる巻きの包帯が見えないの 「私、本当に何も覚えてないの。病院でも説明したでしょ?五年間の記憶がないって」 流星は黙って彼女を見た。その目に、信じたいという揺らぎはなかった。 「この前、紗織の新作発表会で商品に難癖をつけ、彼女を侮辱した。その直後に事故だ。偶然だと言えるのか」 「紗織?」 知らない名前だった。けれど、流星の声はその名前を口にした瞬間だけ、わずかに温度を変えた。 みのりの胸の奥が、きゅっと縮む。 「何を言っているのかわからないけれど、つまり、私は紗織さんを困らせるために、わざと事故を起こしたってこと 」 流星は答えなかった。 沈黙。 それが何より残酷な答えだった。 とりあえず、変に取り乱さずには済んだ。 でもこの男……信じられない。 今の私はあなたの妻なんだよ それなのに、どうして最初から私が悪いって決めつけるの みのりは笑った。笑うしかなかった。 「すごいね。たとえあなたが本当に私の夫だとしても、夫って、妻のことをこんなふうに見るんだ」 「みのり ! 」 「その人が心配なら、そばに行けばいいじゃない。私にその人の話をされても困るし」 言いながら、みのりは自分でも驚いていた。 怖い。目の前の流星は、怖いくらい冷たい。 それでも、ただ黙って傷つくのはもっと嫌だった。 流星の目がわずかに細くなり、空気が一瞬で張りつめる。 「好きにしろ」 そう言って、彼は背を向けた。 …とりあえずは、誤魔化せたかな。でもこの男……信じられない。今の私はあなたの妻なんだよね 。それと、丸山さんって誰?ほんと冷たすぎるし、最低!!!やっぱりさ、憧れの人と結婚したからって、ずっと幸せってわけじゃないのかなぁ … そのとき、彼のスマートフォンが震えた。画面に表示された名前が、みのりの目に飛び込んでくる。 丸山紗織。 流星は迷わず電話に出た。 「流星、今夜は一緒に展覧会に行くって言ってたのになんで来なかったの ! ! 紗織ずっと待ってたんだよ ! ! 」 スピーカー越しに聞こえた女の声は、甘く、親しげだった。 「悪い。少し遅れる」 「ふーん、まーた社長夫人に振り回されてたん じゃないのみのりさん、今日も悲劇のヒロイ ン演じてた ?いい加減千秋楽にしてほしいわよね」 みのりの指先が冷たくなった。 この女、誰? それに私の名前を知ってる え、ちょっと待って。 社長夫人って……まさか私が、笘原さんの奥さんってこと 私、高校の憧れの同級生と結婚しちゃってるってこと ! 流星は否定しなかった。 「今から向かう」 流星はそれだけ言って、電話を切る。 みのりは彼の背中を見つめた。 なのに彼は、彼女の言葉を信じない。 「……ねえ」 みのりの声に、流星が振り返った。 「私たち、本当に夫婦なの 」 流星の表情は変わらなかった。 広すぎる部屋に、冷たい沈黙だけが落ちる。 みのりはその瞬間、はっきりと思った。 初恋は、思い出の中にあるから綺麗なのだ。 目の前にいるこの男は、もう彼女が好きだった笘原流星ではない。

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章一覧

全40章

  1. 第1章チャプター 1 目が覚めたら、笘原夫人
  2. 第2章チャプター 2 同じベッド、遠い背中
  3. 第3章チャプター 3 それでも、夫は彼女を信じない

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