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如月詩織は心臓が跳ね上がり、息を殺した。

一方、桐生彰人は面白がるように唇の片端を吊り上げた。

外では、返事がないことに桐生和臣がますます疑いを深めていた。

さっきの咳は、どう考えても詩織のものだ。

ここは男子トイレだ……。 こんな場所で何をしているか、察しはつく。

和臣は手当たり次第に個室のドアを叩き開けながら怒鳴った。「出てこい!お前だろう!なんでこんな所にいるんだ!」

隣の個室から順にドアが蹴り開けられる音がして、詩織は生きた心地がしなかった――。

もがいて服を着ようとしたが、彰人に力ずくで胸に押さえつけられた。

彰人は体を寄せ、彼女の耳たぶを食んだ。「もう怖くなったのか? さっきは随分と威勢がよかったじゃないか」

耳元に吹きかかる熱い吐息に、詩織の呼吸は乱れ、頭が真っ白になった。

足音はすぐそこまで迫っている……もし和臣に知られたら、婚約は破棄され、如月家は破滅し、自分は醜聞の渦中の人として後ろ指をさされ続けることになる!

バン、とけたたましい音が響き、和臣が二人のいる個室のドアを蹴りつけた。

内側から鍵がかかっていることに気づくと、和臣はさらに顔を歪め、もう一度ドアを蹴りつけた。「中にいるのは誰だ、出てこい!」

詩織は全身を震わせ、心臓が口から飛び出しそうだった。

彰人は、おもむろにドアを開けようとする素振りを見せた。

詩織ははっと我に返り、彼の腕に飛びついてしがみついた。「や、やめて!」

泣きじゃくりそうな声を必死に押し殺し、彼女は続けた。 「お願い、見逃してください。彼に知られたくないの……言うとおりにしますから!」

彰人は眉を上げた。「ほう?本気か?」

詩織はしょっぱい涙をぐっとこらえ、赤くなった目で頷いた。

「物分かりがよくて助かる」

彰人は身をかがめて彼女の頬の涙をなめ取ると、面白がるような目つきで言った。「見逃してやるのは簡単だ。俺の愛人になれ。俺が欲しくなったらいつでも来い」

詩織は目を見張った。信じられなかった。

彼は、自分の婚約者の従兄なのだ!

本能的に拒絶しようとしたが、その瞬間、個室のドアが今にも壊れんばかりに揺れた。

詩織は恐怖で息が詰まった。

「わかりました。だから、彼には知られないようにして!」

彰人は低く笑った。「交渉成立だ」

だがまさにその時、バンという轟音とともに、個室のドアが蹴り破られた。

詩織は全身を震わせた。

ーーもう、おしまいだ……。

だが次の瞬間、彰人のジャケットを頭から被せられた。

それと同時に、和臣の驚愕した声が聞こえた。「……彰人さん?」

「誰が入れと言った?」

冷ややかな声が、さらに相手を威圧した。「いい度胸だな」

「す、すみません、彰人さん。彰人さんが中にいらっしゃるとは知らず……さっき声が聞こえたので……てっきり俺の婚約者かと……」

和臣の額にじっとりと冷や汗が浮かぶ。子供の頃からこの従兄には頭が上がらず、その態度を前に足がすくむ思いだった。

「自分の婚約者の見張りもできずに、俺の邪魔をするとはな」

彰人は鼻で笑い、大きな手でジャケットを被った女をかばうように背後へ隠した。「消えろ。今すぐ!」

その険しい声に、和臣はそれ以上留まる勇気もなく、慌ててその場を後にした。

女には目もくれない従兄が、親族の集まりでこんなことをするとは夢にも思わなかった。あの気難しく冷淡な男をここまで夢中にさせるのは、一体どんな女なのだろう。

もはや相手が詩織だという疑いは消えていた。彼女にそんな度胸はないし、融通の利かない性格で、こんな手管を使えるはずもなかった。

ジャケットを被せられたままの詩織は、恐怖で息もできなかった。

和臣が立ち去る気配を感じ、彼女は震える手で床に散らばった服を拾い集め、立ち去ろうとした。

だが彰人は、待っていたとばかりに彼女を抱き寄せ、からかうように言った。「薄情なもんだな。このまま行く気か?」

詩織は唇を噛み締めた。声はまだ恐怖でかすれている。「まだ何か用?」

彰人は身をかがめて顔を近づけ、低く艶のある声で囁いた。「取引成立の印くらいは、もらっておかないとな」

詩織は背筋をこわばらせたが、男の口元がわずかに笑みの形になるのを見て、意を決して顔を寄せ、そっと唇を重ねた。

彰人はそれで満足したのか、ようやく彼女を解放すると、身なりを整えて個室から出て行った。

一人残された詩織は、急いで体の粘つきを拭うと、周囲に誰もいないことを確かめ、足早に隣の休憩室へ駆け込んだ。

ほとんど同時に、和臣から電話がかかってきた。「どこほっつき歩いてたんだ?」

「俺がどれだけ探したと思ってる! ここはうちの身内の集まりだぞ?まだ自分が如月のお嬢様気取りか?俺のそばで接待に徹しろと言ったはずだ、勝手な真似するな!」

「ごめんなさい、和臣。ちょっと飲みすぎて、休憩室で休んでたの」

詩織はあらかじめ用意していた言い訳を、おとなしく口にした。「心配かけちゃったわね。もうしないから」

和臣は疑う様子もなく、冷たい声で階下へ来るよう命じた。

詩織は不安な心地で階下へ降り、おとなしく和臣の隣に立った。彼の機嫌を窺おうとした時、祖父の桐生英一郎が彰人を怒鳴りつけているのが目に入った。

詩織は途端にその場で凍りついた。

「ますます勝手な真似をするようになりおって!大勢の客が来ている家の集まりに、顔も出さんとは。 皆をお前一人のために待たせる気か!」

老人は歯がゆいといった顔で、ふと彰人の首筋にある赤い跡に気づき、眉をひそめた。「首のそれは何だ。女と一緒だったのか?」

彰人は目を伏せ、気のない口調で答えた。「ただの遊びですよ」

英一郎は息を吸い、さらに声を荒らげた。「遊びだと……この爺さんに、お前が遊び飽きるまで待っている時間が、あとどれだけ残っていると思っとる!」

英一郎は和臣と詩織に目をやった。「会社は継ごうとせず、身も固めない。三つ下の従弟はとっくに婚約して、相手もこのように物分かりのよい、できた娘だというのに!それに比べてお前は、毎日素性の知れない女たちと遊び歩いてばかり!」

彰人は気だるげに振り返ると、詩織の姿を認め、にやりと唇の端を吊り上げた。

「和臣の婚約者は、確かにたいしたものですよ」

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読み進めると物語が続きます。

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章一覧

全80章

  1. 第1章チャプター 1 締めつけて
  2. 第2章チャプター 2 婚約者
  3. 第3章第3章 呼び出しで鉢合わせ

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