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自室に戻った優花は、背後でぴしゃりと音を立てて鍵をかけた。 広々とした寝室は、しんと静まり返っている。部屋の中央に置かれたキングサイズのベッド。この三年間、健斗が一度として触れることのなかった、氷のように冷たいベッドだ。 優花はベッドに視線をやると、唇の端を歪めて、極度に自嘲的な笑みを浮かべた。 何を期待していたのだろう。 いつか、彼が振り向いてくれるかもしれないと。この献身が、報われる日が来るかもしれないと。 なんて、愚かな。 彼女はふらふらと窓際まで歩くと、ポケットからスマートフォンを取り出した。迷いはなかった。震える指で、登録された名前の中から一つを選ぶ。 「加藤 凛」 コール音が数回鳴った後、凛の快活な声が聞こえた。 『優花?どうしたの、こんな時間に』 「……凛。お願いがあるの」 優花の声は、自分でも驚くほど冷静だった。 「離婚協議書を、作ってほしい」 電話の向こうで、凛が息を呑む音が聞こえた。 『……本気?何があったのよ、あの五十嵐健斗と』 「全部よ。全部、もう終わらせるの」 優花は、波一つない声で、健斗がずっと彼の義姉である彩音を愛していたという、吐き気のするような真実を、淡々と語った。三年間の偽りの結婚生活。その全てを。 目を閉じると、いくつもの夜が蘇る。高熱にうなされ、広いベッドの片隅で一人、身体を丸めていた夜。健斗はいつも、書斎に籠っていた。一度だけ、助けを求めたことがある。だが、彼は冷たく言い放った。「医者を呼んだ。俺は仕事がある」。 あの時の絶望を、忘れたことはない。 健斗は、彼女に触れない理由を、こう説明した。 「俺たちは、互いを尊重し合う、神聖なパートナーであるべきだ。肉欲に溺れるような関係は、この結婚に相応しくない」 その言葉を、優花は信じていた。信じようとしていた。 今となっては、その偽善に満ちた嘘が、毒を塗られた刃のように、彼女の心をめちゃくちゃに切り刻んでいた。 「……わかったわ。すぐに取り掛かる」 凛の声が、優花を現実へと引き戻す。 「でも、証拠は?あの男が素直に判を押すとは思えない」 「証拠なら、ある」 優花はそう言うと、寝室の隣にある小さな書斎へと向かった。合鍵を使って、机の一番下の引き出しの、さらに奥にある隠し場所を開ける。 中には、一枚の写真があった。 一年前、書斎を掃除している時に偶然見つけてしまった、彩音のポートレート。その裏には、健斗の力強い筆跡で、こう書かれていた。 『この身体も、この顔も、いつか必ず俺のものに』 優花は、汚物でも見るかのような目つきでその写真を手に取ると、ためらうことなくシュレッダーにかけた。 ガガガガッ、と耳障りな音が部屋に響く。電話の向こうの凛にも、その音は聞こえただろう。 『……優花?』 「大丈夫。これで、一つ目のゴミは片付いた」 凛は、全てを察したようだった。 『わかった。今夜中に草案を作って、明日、私が直接五十嵐家まで届けるわ』 「お願い」 ありがとう、と小さく呟いて、電話を切る。 ふう、と長い息を吐き出した。三年間、ずっと首を絞めつけていた見えない縄が、少しだけ緩んだ気がした。 その時、ドアの向こうから、健斗のひそひそ声が聞こえてきた。 「彩音さん、薬は飲んだかい?何か食べたいものは?」 甘く、蕩けるような優しい声。 優花は、ドアを隔てて、その声を聞いていた。瞳の奥に、血の色にも似た、冷たい光が宿る。 彼女はゆっくりと化粧台に向かうと、無名指にはめられた指輪に手をかけた。五十嵐家の主母の証である、鳩の血の色をした大粒のルビーの指輪。 何の感慨もなく、それを引き抜く。そして、まるでガラクタでも捨てるかのように、化粧台の隅、埃の溜まった場所に、ぽいと投げ捨てた。 鏡に映る自分を見る。忍耐と諦めの中で、いつの間にか光を失ってしまった、憔悴した顔。 冷たい水で、何度も顔を洗う。受けた屈辱は、千倍にして返さなければならない。そう、心に誓った。 階下から、使用人たちが彩音の荷物を運び込む、騒がしい音が聞こえてくる。優花は意にも介さず、パソコンの前に座り、慣れた手つきでパスワードを入力した。 画面に表示されたのは、五十嵐グループの内部会計システム。 優花は、この三年間の、五十嵐家の資産の流れを示す明細書を、次々と閲覧し、ダウンロードしていく。離婚するだけでは、生ぬるい。この男には、経済的にも大打撃を与えなければ、気が済まなかった。 コン、コン。 突然、控えめなノックの音がした。 優花は咄嗟にショートカットキーを押し、画面を一瞬でオンラインのショッピングサイトに切り替えた。 「……どうぞ」 ドアを開けて入ってきたのは、健斗だった。手には、温かいミルクの入ったカップを持っている。 「眠れないかと思って」 そう言って、彼は優花の机にカップを置いた。その時、彼の視線が、優花の指に留まる。 「……指輪は?」 眉間に、わずかに皺が寄った。 「ああ、手を洗う時に、傷つけたくなくて。外しましたの」 優花は、顔色一つ変えずに嘘をついた。 健斗はそれ以上追及せず、代わりに、説教じみた口調で言った。 「優花。彩音さんのことを、お前も支えてやってほしい。彼女は、本当に辛い思いをしているんだ」 優花は、長い睫毛を伏せ、いつものように、従順に頷いてみせた。 その時、机の上のスマートフォンが、微かに光った。凛からのメッセージだ。『草案、完了』。 優花は、ミルクのカップを手に取るふりをしながら、口元に浮かんだ冷たい笑みを隠した。 「わかっていますわ、健斗さん。彩音さんのことは、私にお任せください」 健斗は、その言葉に満足したように頷くと、すぐに踵を返した。一刻も早く、愛する女の元へ戻りたいのだろう。 その背中を、優花は冷たい目で見送った。 この男の優しさは、全て、あの偽りの救世主のためだけのもの。 ドアが閉まる音がした、その瞬間。 優花は、ためらうことなく、まだ温かいミルクを、洗面台の排水溝へと全て流し捨てた。

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章一覧

全80章

  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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