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第1章
「……失礼いたします」 障子の向こうから聞こえた控えめな声に、永井優花は顔を上げた。五十嵐家に仕える古参の家政婦、松田が深々と頭を下げている。 「奥様、そろそろ皆様がお見えになります」 「わかっています。もう少しだけ」 優花は静かに答えると、再び目の前の遺影に視線を戻した。 五十嵐家先代当主、五十嵐康平が亡くなって三日。広い和室は、白菊の冷たい香りと、線香のかすかな煙で満たされていた。 冷え切った畳の上に正座したまま、優花は供えられた白菊の花びらをそっと整える。その指先は氷のように冷たい。きり、と胃の奥が細い針で刺されたように痛み、思わず下唇を強く噛んだ。 この三日間、ほとんど眠れていない。五十嵐家の若き当主、健斗の妻として、義兄である康平の葬儀を取り仕切ることは、優花に課せられた当然の義務だった。だが、その心労以上に、彼女の心身を蝕むものがあった。 ざわ、と廊下がにわかに騒がしくなる。健斗の声だ。誰かと話しているらしい。 「……ああ、頼む。別館の彩音さんと拓海くんを、すぐに本宅へ。部屋は、主寝室の隣の、一番日当たりの良い部屋を用意してくれ」 助理に低い声で指示するその言葉は、薄い障子を易々と通り抜け、優花の鼓膜を直接打った。 ぴしり、と音がして、優花は自分の指が白菊の茎を強く握りしめていることに気づく。繊細な茎が、彼女の指の中で悲鳴を上げていた。 彩音。白鳥彩音。 健斗の兄の妻であり、今は未亡人となった女性。そして、健斗が三年間、心の底から愛し続けている、彼の「聖女」。 優花との結婚は、スキャンダルを避けるための偽装に過ぎなかった。それを、優花は痛いほど理解していた。この三年間の結婚生活、健斗が彼女の寝室を訪れたことは一度もない。まるで薄い氷の上を歩くような、張り詰めた日々。 それでも、康平は優花に良くしてくれた。本当の妹のように可愛がってくれた。その恩義に報いるため、優花はこの家で息を潛めてきた。 だが、もう限界だった。 膝の上に置かれた黒い喪服のスカートが、固く握りしめた拳によって、深い皺を刻んでいる。 ざあ、と窓の外で音がした。突然降り出した冷たい雨が、手入れの行き届いた枯山水の庭を濡らしていく。優花は濡れる砂紋を眺めながら、それまで温和だった瞳から、ゆっくりと感情の色が消えていくのを感じた。氷のように、冷たく、硬く。 その時だった。 スパァン、と乱暴な音を立てて、和室の障子が勢いよく開け放たれた。 「健斗さん……」 そこに立っていたのは、冷たい雨の匂いをまとった夫、五十嵐健斗だった。そして、その腕の中には、まるで壊れ物を扱うかのように、華奢な身体の彩音が庇われていた。 室内の死んだような静寂が、一瞬で破られる。 健斗は、畳の上で顔を青ざめさせている優花の存在などまるで目に入らないかのように、彩音を気遣いながら部屋に入ってきた。 「彩音さん、身体が冷えてしまう。こちらへ」 「……ごめんなさい、健斗さん。私、康平おじさまに、ちゃんとお別れを言いたくて……」 か細い声で呟く彩音に、健斗は痛ましげな表情を向ける。その視線は、優花がこの三年間、一度も向けられたことのない、骨の髄まで慈しむような色をしていた。 心臓を鈍器で殴られたような衝撃。呼吸が、浅くなる。 健斗はようやく優花に気づくと、何の躊躇もなく、不躾な命令を口にした。 「優花。主寝室の隣の部屋、すぐに片付けさせてくれ。彩音さんと拓海くんが今日からここで暮らす」 「……」 「聞いているのか。彩音さんは夫を亡くして心細いんだ。それに、拓海くんもまだ小さい。五十嵐家の人間として、俺が面倒を見るのは当然だろう」 有無を言わせぬ口調。それは決定事項であり、妻である優花に拒否権などないという、絶対的な宣告だった。 いつもなら、優花はすぐに立ち上がり、濡れた夫の上着を脱がせ、甲斐甲斐しく世話を焼いただろう。 だが、今の彼女は動かなかった。 正座を崩さぬまま、俯いていた顔をゆっくりと上げる。そして、ただ静かに、冷たく頷いた。 「……承知いたしました」 その声には、何の感情も乗っていなかった。健斗は一瞬、眉をひそめたが、すぐに興味を失ったように彩音に向き直る。 優花は、その健斗の横顔を、目に焼き付けた。彩音に向ける、あの痛惜の眼差しを。 ああ、そうか。 この三年間の私の献身は、全て、この光景を世間の目から隠すための、滑稽な茶番だったのか。 奥歯を、強く、強く噛み締める。 その時、彩音の後ろからひょっこりと顔を出した小さな男の子が、甲高い声を上げた。 「うわーい!ひろーい!」 彩音の息子、拓海だ。五歳になるその子は、厳粛であるべき和室を遊び場かなにかと勘違いしたのか、所狭しと走り回り始めた。 「拓海、こら、静かに……」 彩音の注意など、まるで聞こえていない。そして、悲劇は起きた。 ガッシャーン! 拓海が供物台に激突し、その上にあった白菊の花瓶が大きな音を立てて畳に落下した。冷たい水が、砕けた磁器の破片と共に、優花の足元に飛び散る。 鋭い痛みが走り、優花は自分の手を見下ろした。白い手の甲に、赤い一筋の線が走り、ぷくりと血の玉が浮かび上がっている。 「拓海!」 健斗が慌てて息子を抱き寄せる。だが、彼の口から出たのは、優花への気遣いの言葉ではなかった。 「優花、何をしている!早く片付けろ!」 眉をしかめ、まるで優花の不注意で起きた事故であるかのように、厳しい声で命じる。 優花は何も言わなかった。ただ黙って立ち上がると、近くにあった布巾を手に取り、膝をついて、畳に広がった水と破片を一つ一つ拭き取り始めた。 「拓海は、父親を亡くして、悲しみのあまり、少し気持ちが昂っているだけなんだ。お前も理解してやれ」 健斗が、言い訳とも取れないような言葉を口にする。優花は内心で冷笑した。悲しみと、他人の家の備品を破壊することは、何の関係もない。 「まあ、優花さん、大変……ごめんなさいね、うちの子が」 彩音が、わざとらしく驚いたような声を出し、ティッシュを差し出してくる。その指先には、上品なピンク色のネイルが施されていた。 優花は、その手を冷たく避けた。 顔を上げ、彩音の顔を真正面から見つめる。自分とどこか似ているが、より儚げで、男の庇護欲を掻き立てるであろうその顔を。 ああ、これが、私の「代役」か。 そして、健斗の「スキャンダル避けの盾」。 その役割を、痛いほど理解した。 健斗は、集まってきた使用人たちに向かって、正式に宣言した。 「今日から、白鳥彩音さんと拓海くんは、この本宅で暮らす。皆、主母である優花に対するのと同じように、敬意をもって接するように」 その言葉は、優花の存在価値を、根底から否定するものだった。 優花は静かに立ち上がると、健斗に背を向けた。 「……お茶を、淹れてまいります」 そう言って、よろめくことなく、しっかりとした足取りで和室を後にした。 この戦場を、一時的に明け渡してやる。 茶器が並ぶ長い廊下を歩き、茶の間へと向かう。やかんで湯が沸騰し、ごぼごぼと音を立てている。その激しい音を聞いているうちに、不思議と、荒れ狂っていた優花の心は、奇妙な静けさを取り戻していた。 重い茶盆を手に、再び長い廊下を引き返す。吹き抜ける風が冷たく、身体が震えた。だが、この風よりも、あの男の心のほうが、ずっと冷たい。 連日の葬儀の疲れで、身体は限界だった。目の前が、ぐらり、と揺れる。それでも、優花は茶盆を落とさなかった。一滴の水も、こぼさなかった。 和室の障子を、そっと開ける。 目に飛び込んできた光景に、優花の呼吸が止まった。 健斗が、畳に片膝をつき、自分のハンカチで、拓海の顔を優しく拭ってやっている。その姿は、まるで慈愛に満ちた父親そのものだった。 その光景が、優花の瞳を焼いた。 優花は無言で部屋に入り、健斗の前の紫檀の座卓に、ことり、と音を立てて茶碗を置いた。それは、普段の彼女からは考えられないほど、無遠慮な音だった。 そして、凍てつくような声で、一言だけ告げた。 「わたくし、体調が優れませんので、これで失礼いたします」 健斗が驚いて振り返るのを待たずに、優花は踵を返し、決然と和室を後にした。 長い廊下を歩きながら、優花は足を止め、振り返った。障子の向こうに、健斗と彩音の気配がまだ残っている。 そして、誰にも聞こえないほど低く、しかし芯の通った声で呟いた。 「五十嵐健斗。私は、あなたと別れます」 もう、二度と、あの男のために、この指一本動かすものか。 そう、固く、固く誓った。
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