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第1章
「おい、西園寺家のお姫様。まだ夢でも見てるのか」
冷たい声が奈津子の鼓膜を突き刺した。 田中と名乗る看護師が、金属製のトレイを乱暴にテーブルへ置く。ガチャンと耳障りな音が狭い独房に響き渡った。
奈津子は反応しない。 ただ床に座り込み、鉄格子の嵌まった小さな窓を見つめている。そこから見えるのは四角く切り取られた灰色の空だけだ。三年間、彼女が見てきた世界の全てだった。
「誰も助けに来やしないっていつになったら分かるんだい」 田中は嘲るように笑い、わざと水の入ったコップを倒した。 水が床に広がり、奈津子の薄いズボンの裾をじわりと濡らす。その冷たさに、彼女の肩が微かに震えた。
それでも奈津子は顔を上げない。三年という歳月が、彼女から「抵抗する」という人間らしい反射さえも奪い去っていた。その無抵抗な態度が田中をさらに苛立たせる。
「あんたのお兄様が面会に来てるよ。あんたがどれだけ“良く”なったか、確認しにね」 田中が勝ち誇ったように囁く。
「兄」という言葉に、奈津子の空っぽだった瞳が初めて揺らいだ。 ──清貴兄さん? 胸の奥で、凍りついた湖の底から泡がひとつ浮かび上がる。だがすぐに、その泡は消えた。違う。ここに来るのはいつも、違う兄だ。
その反応に満足したように田中は鼻を鳴らして立ち上がる。
重い鉄の扉が開く音がした。 寸分の隙もなく高級スーツを着こなした男が、吉田医師を伴って入ってくる。西園寺清文。奈津子の一番上の兄だ。
清文の視線が室内を滑り、床の水たまりと惨めな姿の奈津子を捉えた。彼の眉が不快そうに寄せられる。その目に浮かぶのは、汚物を見るかのような嫌悪だった。
彼は奈津子を見ようともせず、隣の吉田医師に言った。 「吉田先生。どうやらまだ『治療』が足りないようだ」 「いえ、清文様。ご安心ください。彼女の反抗心はもうほとんど残っておりません」 吉田医師が慌てて腰を折る。
その声を聞きながら、奈津子はゆっくりと顔を上げた。三年ぶりに見る兄の顔。記憶にあるよりも冷たく硬い。その眼差しは、この施設の鉄格子よりも冷酷だった。
何かを言おうとして、唇が震える。だが乾ききった喉からは、ひび割れたような息が漏れるだけだった。
清文がようやく彼女に視線を向けた。まるで出来の悪い製品を検品するかのように。
「片岡奈津子」 彼はそう呼んだ。妹ではなく。西園寺家から切り離された、ただの個人の名で。 その姓は、彼女が十三でこの家に引き取られる前の、母方の名だった。西園寺の血を引きながら、西園寺を名乗ることを許されなかった日々。清文はその名を呼ぶことで、お前は所詮「外」の人間だと宣告しているのだ。
「ここから出たいか」 その言葉が、奈津子の心臓を鷲掴みにした。 出る。 三年間、一度も聞いたことのない言葉だった。
奈津子の目に必死の光が宿る。彼女は力の限り、こくこくと頷いた。
その様子を見て、清文の口元に冷たい笑みが浮かぶ。彼は懐から一枚の招待状を取り出し、奈津子の足元に投げ捨てた。 金色の箔押しが施されたカードには「西園寺雅様 御誕生祝賀会」と記されている。
雅の誕生日。 それは、奈津子自身の誕生日でもあった。 呼吸が止まる。 同じ日に生まれた二人。一人はホテルで祝福され、一人は独房で水たまりに座っている。この不均衡が、西園寺家における彼女の全てを物語っていた。
「明日は雅の誕生日パーティーだ。そして、雅と高橋翔との婚約発表の場でもある」 高橋翔。 その名前は、奈津子の記憶に突き刺さったままの錆びついたナイフだ。三年前の裏切り。雨の夜。彼の冷たい瞳。全てが脳内で渦を巻く。 かつて彼女が心から愛し、そして彼女を最も深く傷つけた男。
奈津子は苦痛に顔を歪め、目を閉じた。
清文はそんな彼女を無感動に見下ろしている。 「出たければ出られる。一つ、条件がある」 彼は言った。 「パーティーで、全ての招待客の前で、三年前にお前が雅にしたことを土下座して謝罪しろ」
奈津子は弾かれたように目を開けた。 兄の顔には何の感情も浮かんでいない。
「お前が翔への嫉妬心から薬を盛り、雅を陥れたと認めろ。そして西園寺家の汚点であるお前自身を、最も惨めな姿で洗い流せ」 清文はゆっくりと屈み込み、奈津子と視線を合わせた。その声は悪魔の囁きのように静かだった。
「それが出来なければ、お前はここで一生を終える」
独房は静寂に包まれた。 奈津子の絶望に満ちた浅い呼吸の音だけが響いていた。
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