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清文は立ち上がり、奈津子を見下ろした。その目は、彼女に選択の余地など与えていないと告げていた。

奈津子は俯いたまま動かない。乱れた髪が顔を覆い、表情は窺えない。だが、床についた彼女の指が白くなるほど強く握り締められていた。

脳裏に、この三年間が焼き付いたフィルムのように蘇る。 ベッドに体を縛り付けられ、頭に電極を当てられた時の、身を裂くような痛み。 何を混ぜられているか分からない薬を無理やり飲まされ、思考が霧の中に沈んでいく感覚。 職員たちの粘つくような視線と、人格を否定する言葉の暴力。 「お前は狂っている」と何千回も繰り返し聞かされ、自分でも自分が分からなくなりかけた夜。

ここにいれば、確実に殺される。肉体か精神か、そのどちらかが先に尽きるだけだ。

「……十秒だけ待ってやる」 清文が腕時計に目を落としながら冷たく言った。

隣で吉田医師が追従する。 「清文様。彼女のような頑固な患者には、これくらいの厳しさが必要です」

その時、奈津子の脳裏にもう一人の兄の顔が浮かんだ。 双子の兄、清貴。 優しかった兄。いつも彼女の味方でいてくれた兄。他の誰もが彼女を「厄介者」として扱う中で、彼だけが「奈津子は奈津子だ」と言ってくれた。 三年間、一度も会えていない。彼が今どうしているのか。それだけが、奈津子をこの地獄で繋ぎとめていた唯一の鎖だった。

清貴に会いたい。 その一心で、彼女は決断した。 尊厳か、自由か。 否。この場所にいる限り、彼女に尊厳など一片も残されてはいない。ならば、掴むべきは一つだけだ。

「……わかった」 清文がタイムリミットを告げようとしたその瞬間。 奈津子の唇から、掠れた声が漏れた。

あまりに小さくか細い声だったが、その場の全員の動きを止めるには十分だった。

清文は少しだけ目を見開いた。もっと抵抗するか、あるいは泣き喚くとでも思っていたのだろう。 彼は奈津子の顔を覗き込む。そこに憎しみや絶望の色を探そうとした。 だが、奈津子の顔にあったのは、全てを諦めきったかのような凪いだ静寂だけだった。 それは、嵐が来る前の海のような不気味な静けさだった。しかし清文は、それに気づかない。気づこうとしない。

その静けさが清文を微かに苛立たせる。まるで自分の思い通りに事が運んでいないかのような奇妙な感覚。 だが彼はすぐにその感情を打ち消した。

「ふん。三年間も無駄ではなかったようだな」 清文は満足げに吉田医師に頷いてみせる。 「はい。当センターの治療プログラムは横浜でも随一ですから」 吉田医師が媚びるような笑みを浮かべた。

治療。奈津子は心の中で冷笑した。人の心を壊すだけの行為を、彼らはそう呼ぶのだ。 彼らが欲しいのは私の後悔ではない。ただ絶対的な服従だけだ。

「おい。彼女に着せてやる服を用意しろ」 清文は独房の外に控えていた部下に命じた。 「あんな幽霊みたいな格好でパーティーに出られては、西園寺の恥だ」 その声は、邪魔な荷物を片付ける時のように無機質だった。

奈津子は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。栄養失調と長く座っていたせいで、体がぐらりと揺れる。 彼女は初めて、清文の目をまっすぐに見つめた。

「兄さん」 三年間、一度も口にしなかった呼び方。 清文の肩が僅かに強張った。

「あなたの言う通りにする。一言一句間違えずに」 奈津子の声には懇願も怒りもなかった。ただ、全てを見通しているかのような底なしの冷たさだけがあった。 それは、これから始まる長い戦いの、最初の一歩だった。彼女はまだ何も計画していない。だが、彼女は覚悟したのだ。いつの日か、この借りは必ず返すと。

その視線に、清文は得体の知れない寒気を感じ、眉をひそめる。 「……せいぜいそうしてもらおう」 彼は吐き捨てるように言うと、背を向けた。一秒でも長くこの場所にいたくないという空気を全身から発している。

吉田医師が慌てて後を追う。 重い鉄の扉が閉まる直前、吉田医師が一度だけ、複雑な表情で奈津子を振り返った。

再び独房は静寂に包まれた。 奈津子はあの小さな窓辺まで歩いていく。 明日、自分が飲まなければならないのは猛毒の杯だ。 だがこの扉の向こうへ出るためには、それを飲み干すしかない。

復讐の種が、彼女の心の奥深く、静かに芽吹いた瞬間だった。 それはまだ、どんな花を咲かせるかも分からない小さな種。 だが奈津子は、その種の名前を知っていた。 「真実」──三年前、誰も見ようとしなかったもの。彼女が警察を呼びたかった本当の理由。 彼女は、膝の上で拳を握る。この手が、いつか必ずその箱をこじ開ける。

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  1. 第1章第1章
  2. 第2章第2章
  3. 第3章第3章

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